優しい人間は、ひどい人間に対しても優しくすべきか。哲学者・岸見一郎さんが語る「寛容であること」

秩序を紊(みだ)す人

伊坂は個人間の寛容、不寛容に触れた渡辺の言葉だけを小説の中で引用しているが、寛容、不寛容はただ個人間の問題ではない。渡辺は、秩序を紊す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきである、ただし、その制裁はあくまでも人間的でなければならず、秩序の必要を納得できるような制裁でなければならないという。

さらに、既成秩序の維持にあたる人は、その秩序から安寧と福祉を与えられているが、自らが恩恵を受けている秩序が永劫(えいごう)に正しいかを深く考え、「秩序を紊す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁(わきま)える義務を持つべきだろう」(渡辺、前掲書)といっている。

制裁という言葉は穏やかではないが、人間的な制裁と渡辺がいうのは、例えば、交差点の通行を円滑にする信号、つまり交通規則である。交通規則を守らない人に用いる制裁は暴力ではない。

国の法律は本来暴力的なものではないはずである。ただし、それが真に秩序を形成するために有用であるという条件がつく。実際には、既成秩序の欠陥を感じ、それの犠牲になって苦しんでいる人にとっては、既成秩序とそれを維持するための法律は暴力に感じられる。

人間の恣意(い)を制限し、「社会全体の調和と進行」(前掲書)を求める規則や法律が暴力的に感じられるとすれば、法律の遵守(じゅんしゅ)を要求する人の無反省、傲慢、機械性のためであると渡辺はいう。渡辺は法律を盾に弱いものをいじめる人、交差点で怒鳴りつける警官を例にあげているが、今の時代は政治家が少しも理性的でなく、多くの国民からの反対に耳を傾けようとはせず、「秩序の必要を納得できない」法律を押しつけているように見える。

既成秩序に欠陥があるのであれば、それに従わない人は不寛容とはいえない。真の秩序を維持しようとする寛容な人が、暴力的に秩序を押しつけようとする不寛容な人にどう対峙するのか。不寛容であるべきでないのなら、説得を試みるしかない。幸い、政治家の中に理性的な「普通人間」(前掲書)はいるはずだ。

※記事に使用している画像はイメージです。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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