今日、戦禍に巻き込まれて...哲学者・岸見一郎さん「他者に関心を持って生きる」ことについて/生活の哲学

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「他者に関心を持って生きる」です。

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他者への関心

アルフレッド・アドラー(※)の娘で後に精神科医になったアレクサンドラ・アドラーが、父親が「隠れた共同体感覚」(hidden social interest)について、友人たちと議論していたことを報告している(Alfred Adler: As We Remember Him)。

ある冬の寒い夜、アドラーは目を覚ました時、自分の上にもう一枚毛布が掛けてあることに気づいた。妻がかけてくれたと思ったが、妻はかけたのではなかった。そこでアドラーはこの話を引いて、「時にあなたの知らない人の中に共同体感覚がある。それは隠れた共同体感覚だ」と話した。「隠れた共同体感覚」というのは、知らない人が毛布をかけるような気遣いをすることがあるという意味である。

なぜ他者を気遣うことが共同体感覚(Gemeinschaftsgefuhl)なのかは、これが英語では、「他者への関心」という意味のsocial interest と訳されたことからわかる。

実は毛布をかけたのは妻ではなく、娘のアレクサンドラだった。アレクサンドラは父にこういった。「お父さんが咳をしているのが聞こえたので、私がお父さんが風邪を引くかもしれないと思って、もう一枚毛布を取ってきた」

父親が風邪を引くかもしれないと気遣って毛布をかけたアレクサンドラは、他者、つまり父親に関心があったのであり、この他者への関心のことを「共同体感覚」というのである。

他者への関心という時の「関心」interest は、ラテン語のinter esse(est はesseの三人称単数形)が語源であり、「中に、あるいは間にある」という意味である。「関心がある」というのは、対象と自分との「間」(inter)に関連がある(est)、対象と自分が無関係ではないということである。

ところが、関心がない人がいる。アドラーは岸壁の縁から身を乗り出してバランスを失って海に落ち沈んでいく仲間を珍しそうにじっと見ていた若い男性の例を引いている。「彼が、その人生において、そもそも誰にも何か悪いことをしたことは一度もなく、さらには折々に人とうまくやっていることができると話すのを聞いても、このことが彼の共同体感覚がわずかであることについて、われわれを欺くことがあってはいけない」(『性格の心理学』)

仲間の身に起こっていることが自分に無関係ではなく、したがって、実際には何もできなくても何とかしなければと思わない人は共同体感覚がわずかしかないとアドラーはいうのである。

目の前で起きていることだけではない。今日、戦禍に巻き込まれて負傷して亡くなる人がいることが自分とは無関係とはいえないだろう。

※ アルフレッド・アドラー(1870~1937年)。オーストリアの精神科医、心理学者。

意識的に発達させる必要

「隠れた」共同体感覚には、他者への関心は何か特別なものであってはならないという意味もある。アレクサンドラは、父親が自分がかけた毛布の話をしているのを聞いたので、実は自分がかけたといったのだが、普通は自分がこのようなことをしたと人に吹聴したりしないだろう。共同体感覚は本来「隠れて」いるものである。

アドラーはこの共同体感覚は先天的なものだと考えた。困っている人がいれば知らない人でも助けようと思う。人は敵対しているのではなく、他者に関心を持っているのが、人の本来のあり方だとアドラーは考えるのである。

しかし、アドラーはさらに共同体感覚は「意識的に発達させなければならない先天的な可能性」だといっている(『人はなぜ神経症になるのか』)。共同体感覚が可能性に留まり、意識的に発達させられなければ、多くの人は自分にしか関心がないからである。

だからこそ、「自分への執着」(Ichgebundenheit)が個人心理学(アドラーが創始した心理学の名称)の中心的な攻撃点だといっているのである(Alfred Adlers Individualpsychologie)。「自分への執着」(Ichgebundenheit)とは、「すべてを自分に結びつける(binden)こと」という意味である。

教育ができること

その自分に向けられた関心を他者に向けるようにするのが教育である。教育は英語ではeducation というが、これは「引き出す」という意味のラテン語のeduco が語源である。

もともと持っていなければ引き出すことはできない。何を引き出すのか。共同体感覚である。アドラーの共同体感覚は「意識的に発達させなければならない先天的な可能性」であるといっているのはこういう意味である。共同体感覚を引き出すことで、自分にしか向けられていない関心を他者に向けるのである。

自分への関心を他者に向けるのは簡単ではない。どうすれば他者への関心を引き出すことができるだろうか。

まず、叱らないことである。叱ると他者を敵と思い、他者に関心を持たなくなるからである。また、屈折しているが、叱られてでも注目されたいと思う。そのような人も自分にしか関心がないのである。

次に、ほめないことである。ほめられると、他者を気遣い援助したことを吹聴し、誰かに認めてほしいと思うようになる。そのような人も自分にしか関心がないのである。

叱りもほめもしない代わりにどうすればいいか。他者や自分の貢献に注目するのである。

アドラーは、「自分に価値があると思える時にだけ勇気を持てる」といっている(Adler Speaks)。どんな時に自分に価値があると思えるかといえば、自分が何らかの仕方で役立っていると感じるという意味での貢献感がある時である。自分に価値があると思えれば、対人関係の中に入っていくことができる。

他者が自分に貢献しているかどうかは他者に関心がなければわからない。他者については、他者の貢献に感謝したいが、自分については、誰からも感謝されないかもしれない。そうであっても、自分が他者に貢献しているかも他者に関心がなければわからない。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2023年4月号に掲載の情報です。

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