哲学者の岸見一郎さんが語る「生きることに価値がある」ということ/生活の哲学

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「生きることに価値がある」です。

哲学者の岸見一郎さんが語る「生きることに価値がある」ということ/生活の哲学 pixta_98995452_S.jpg

与えることで豊かになる

マーカス・フィスター(※1)『にじいろの さかな』は、青く深い遠くの海に住む「にじうお」と呼ばれる魚の話である。その魚は虹のように様々な色合いのウロコをつけていた。そのキラキラ輝くウロコを見た魚は一枚おくれといったが、にじうおは拒んだ。

「ぼくの この とくべつな
うろこを くれだって
いったい
だれさまのつもりなんだ」

この話が広まると、皆そっぽを向き、にじうおは海中で一番孤独な魚になった。輝くウロコを持っていても誰にもほめてもらえなければ何の役に立つのか。悩んだにじうおはたこに相談した。たこはウロコを一枚ずつ他の魚に与えるよう助言した。

「それで おまえは、
いちばん きれいな
さかなでは なくなるが、
どう すればしあわせに
なれるかがわかるだろう」

他の魚に与えるウロコがなくなったら、どうやって幸せになれるのか。にじうおは困惑したが、ウロコを一枚ほしいといわれた小さな魚に与えたら不思議な気持ちに襲われた。「あげれば あげるほど、うれしく なった」のである。ついに輝くウロコはたった一枚になったが、にじうおは幸せだった。

与えると損になると思う人がいる。そのような人は、「与える」(give)ことは何かを諦める(give up)ことであり、与えると自分が貧しくなると考える(Fromm, Man for Himself )。そこで、他の人に何も与えようとしないか、見返りがある時にしか与えない。このような人をフロム(※2)は「非生産的」な人という。

他方、「生産的」な人は、与えるという行為によって、貧しくなるどころか、自分の強さ、豊かさ、力を経験する。にじうおは初めは他の魚に与えることを拒んだが、与えることで自分の強さ、豊かさ、力を経験し、そのため嬉しくなったのである。

ところで、にじうおは何を与えたのか。たこは、それを与えれば「いちばん きれいな さかなでは なくなる」という。きれいであることは「属性」である。属性はそれを所有する人に「属する」ものだが、本質ではない。それを失っても本質には変わりはない。加齢と共に美を失っても、別の人になるわけではないということである。

フロムは生産的な人は、自分のもっとも重要なもの、つまり、「生命」を与えるという。自分の中に息づいている喜びは自分をも他者をも活気づける。愛においては、相手の中に愛を「生産」する。

※ 1 1960年〜。スイスの絵本作家。

※ 2 エーリッヒ・フロム(1900 〜1980年)。社会心理学者、精神分析学者。著書に『自由からの逃走』『愛するということ』などがある。

返ってこないかもしれない

問題は二つある。一つは、フロムは、与えるという行為は、相手の中に愛を「生産」すれば自分に返ってくるというが、必ず返ってくるかわからないことである。愛をギブ・アンド・テイクと考える人が愛することに見返りを求めないことは難しいだろう。親は子どもを愛する。そうすることは親から愛されていると子どもに感じさせるだろうが、親は子どもから愛されるとは限らない。

もう一つは、愛の生産をものの贈与と見てしまうことである。フロムは次のようにいっている。

「八歳半から十歳になるまでの大抵の子どもたちにとって大事なことはもっぱら愛されること、ありのままの自分が愛されることである。この年までの子どもは愛されることに喜んで反応するが、まだ愛さない」(The Art of Loving )

親から愛されるばかりだった子どもがやがて親を愛するようになる。「愛を生み出す」という新しい感覚が、自分自身の活動によって生まれる。「子どもは、初めて母親(あるいは父親)に何かを『与える』ことや、詩とか絵とか何かを作り出すことを思いつく。生まれて初めて、愛という観念は、愛されることから、愛すること、愛を生み出すことへと変わる」(前掲書)

「何かを『与える』」という行為は愛の表現でしかないが、目に見える行為としてしか考えられなければ、愛だけでなく、他者に与えること、貢献することも目に見えるものでなければならないと考える人は多い。

何もしなくても与えられる

しかし、幼い子どもは親に何かを与えようと思わなくても、親に愛を与えている。大人も何もしていなくても、他者に貢献している、与えていると考えてはいけないわけはない。

今の世の中はあまりにギブ・アンド・テイクに囚われている。もはや他者に与え貢献できない、それどころか他者に迷惑をかけてばかりいると思う人は、自分にはもはや生きる価値がないと思ってしまうことになる。

若い頃、週に一日だけ働いていた診療所には六十人ほどの人が、社会復帰を援助するプログラムであるデイケアに通ってきていた。私が出勤する日は、昼食を作ることになっていた。

朝、その日作るメニューをスタッフが発表し、買い物に行くのだが、買い物に行く人は少なかった。皆で料理を始める時も手伝うのは十五人くらいで、後の人は手伝わなかった。昼時になって料理ができたことを知らせると、診療所のどこからともなく人が集まってきて、皆で昼食を食べた。

この診療所ではその日手伝わなかった人を責める人はいなかった。今日は元気だったので手伝えたけれど、もしも明日体調がよくなくて手伝えなくても許してほしいという暗黙の了解事項があったのだ。

普通の社会では「働かざる者食うべからず」というようなことをいう人がいるかもしれない。しかし、料理を作れる人がその日何もできない人のためにも料理を作るこの診療所は、働く人も働かない人も共存する健全な社会の縮図であると私は思った。

しかし、これとて働くことに価値があり、働けない人を働ける人が支えているとなると、働けない人は気兼ねしないわけにいかない。生まれたばかりの子どもに誰も働けとはいわないように、働く人もそうでない人も価値があると思えるようになるためには、人間の価値は生産性でなく生きることにあることを誰もが認める社会にしないといけない。輝くウロコを持っていてもいなくてもいいのだ。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2023年5月号に掲載の情報です。

この記事に関連する「ライフプラン」のキーワード

PAGE TOP