「お別れ、けっこう早いかも...」ふとんに入り、泣き出した妻/僕のコーチはがんの妻(11)

夫婦で穏やかな老後を過ごすと疑わなかった...。50代の夫婦を突然襲った「妻のがん」。子供のいない2人暮らし、家事のできない夫に、がんの妻が「鬼コーチ」と化して料理特訓を始めて...。前回の連載が反響を呼んだ藤井満さんの著書『僕のコーチはがんの妻』(KADOKAWA)より、笑って泣ける「愛の実話」を、さらに第4章の途中(全6章)まで抜粋してお届けします。

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ホタルイカのパスタ食べた夜。救急搬送「お別れ早いかも」

分子標的薬と免疫チェックポイント阻害薬を併用する臨床試験(治験)に参加する前、僕と妻は長崎を旅した。

2月末の、嵐の前の凪のような4日間だった。

旅行から帰って4日後の午後、妻は不安そうにつぶやいた。

「なんだかだるい。脇腹や右肩がチクチクする」

満腹で走ったときの痛みに似ているという。

そういえば、せきも増えている。

パジャマに着替えてふとんに入り、「転移ではないと思うけど」と言って泣き出した。

「お別れがけっこう早いかも。ミツルに悲しい思いをさせてごめんね。もっと自由に仕事で飛び回れるはずだったのに」

「苦労は2人で半分こや。もし先に死んだら、そんなに待たせずに行くから」

「ダメ!いっぱいいっぱい長生きして。ねっ、絶対長生きしてね」

妻はしばらく泣いて落ち着くと、「もっとあちこちの支局に行きたかったねぇ」と言った。

輪島支局(石川県輪島市)と紀南支局(和歌山県田辺市)は、住居と事務所が一体の一軒家だった。

取材で外出するとき以外は2人でずっと一緒だった。

でも、引っ越すたびに地方支局のあまりの乱雑さと汚さに、妻はかんしゃくを起こしていた。

「異動のたびにぶち切れてたやん」と言うと、

「それもふくめて楽しいんや。被害者はミツルだけやし」と笑顔を見せた。

3月3日、妻は年上の友だちに連れられて、奈良県のがん封じの寺に出かけた。

夕方、「楽しかったけど、お腹が痛いから早めに切り上げてきた」と帰ってきた。

僕は、妻がテーブルの上に置いていったレシピをもとに、ミネストローネをつくって待っていた。

「どや、『鬼ストローネ』ができてるぞ。夕飯にしよか」

得意気に言うと妻はギロッとにらんだ。

「はぁ?私にスープしか食べさせへんつもり?昨日買ったホタルイカがあるやろ。パスタぐらいつくらんか?」

そう言って冷蔵庫からホタルイカと菜の花を取りだした。

「きょうはほめられると思ったのに、また怒られるんかぁ」と思いながら台所に立った。

オリーブオイルをフライパンにひいてにんにくと唐辛子を入れて点火する。

強火でカリッと炒めようとしたら、

「中華料理とちゃう!まっ黒焦げになるやろ。弱火でゆっくりオイルににんにくと唐辛子の香りを移すんや」

そこにホタルイカと菜の花を入れて炒める。

菜の花はどんぶり1杯ほどもあったのに、小さくちぢんだ。

パスタのゆであがりと、具の仕上がりが同じになるのが理想らしい。

具の入ったフライパンにゆであがったパスタを入れて混ぜたらできあがり。

「パスタとミネストローネ2品で野菜10種。鬼レシピは栄養バランスを重んじてるんや。私の人間性みたいに何事もバランスやで」

妻の性格はバランスとは正反対と思うのだが、早く食べたいから異論ははさまなかった。

ホタルイカをかみしめると、うまみがホロッと口のなかにほとばしる。

ほろ苦い菜の花とにんにく、唐辛子がイカのわたの臭みをうまく消している。

白ワインが止まらない。

夕食後にくつろいでいると「これ見て」と、妻は製薬会社のホームページを示した。

肝臓がんによって右肩や上腹に痛みが出ることがあるという。

夜が更けて4日午前0時すぎ、僕が自室で日記を書いていると、「ミツル、ミツル!」とくぐもった悲鳴が聞こえた。

あわててリビングに行くと、「痛い、痛い」とうなって倒れている。

「救急車呼ぶわ」

「その前にがんセンターに電話して。それから、靴と診察券と下着を用意して」

激痛におそわれている妻の方が冷静だ。

生まれてはじめて救急車で搬送された。

翌朝、今年3回目のCT(コンピューター断層撮影)を撮る。

当直の若い医師が「肝臓の腫瘍がひとまわり大きくなっている」と言って、こぶしほどの大きさを示した。

この前は2センチと聞いたはず。

わずかな間にそんなに大きくなっているのか。

臨床試験の事前検査で治療開始をおくらせたからではないのか......。

思い悩んでいると看護師が「こちらにサインをお願いします」と「有料室(差額ベッド室)使用同意書」を持ってきた。

1泊1万6200円。

患者の希望ではなく、治療上の必要などで個室に入院させる場合も患者負担を求められるのだっけ? 疑問を感じたが考える余裕はない。

お金にこまっているときにこんな同意書を突きつけられたらつらいだろうなあ、と思った。

痛みが落ち着いた妻は口をとがらしてこう言った。

「寝室から叫んでも気づかないから、台所まで這って出た。気づいてもらえないのが一番しんどかった」

「ゴメン」と謝ると、ニヤッと笑って、

「1日絶食やて。昨日パフェを食べといてよかった。ひな祭りのちらし寿司、つくりたかったなあ。せっかく干ししいたけを水でもどしておいたのになあ......」

食べ物のことばかりしゃべりつづけた。

【次のエピソード】がんで入院した妻に僕ができることは...。妻に宛て、書き始めた手紙/僕のコーチはがんの妻(12)

【最初から読む】「イボやなくてメラノーマ(悪性黒色腫)やて」妻から届いた1通のメール/僕のコーチはがんの妻(1)

【まとめ読み】「僕のコーチはがんの妻」記事リスト

イラスト/藤井玲子

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6章に渡って綴られる「家族の愛の実話」。巻末には著者に妻が教えてくれた「23のレシピ集」も収録

 

藤井満(ふじい・みつる)
1966年、東京都葛飾区生まれ。1990年朝日新聞に入社。静岡・愛媛・京都・大阪・島根・石川・和歌山・富山に勤務し、2020年1月に退社。著書に『北陸の海辺自転車紀行』(2016年、あっぷる出版社)、『能登の里人ものがたり』(2015年、アットワークス)、『石鎚を守った男』(2006年、創風社出版)など。

藤井玲子(ふじい・れいこ)
1967年、兵庫県生まれ。商社OL時代にマウスを使った落書きを覚える。1999年に藤井満と結婚し、退職後、落書きをのせるホームページ「週刊レイザル新聞」を創刊。2018年永眠。

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『僕のコーチはがんの妻』

(藤井満/KADOKAWA)

50代夫婦、子どものいない2人暮らし。妻が末期がんになったら、家事も料理もできない夫はどう生きればよいのか? 妻がメラノーマ(悪性黒色腫)というがんであると診断されたのをきっかけに、著者は夫婦2人で料理を猛特訓。それは、妻からの最後の贈り物でした。朝日新聞デジタルの連載で33万人が感動した、大切な人と読みたい家族の愛の実話です。

※この記事は『僕のコーチはがんの妻』(藤井満/KADOKAWA) からの抜粋です。

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