<この体験記を書いた人>
ペンネーム:だんだん
性別:女
年齢:53
プロフィール:辛い時、悲しい時、ずっと母は私の味方でした。
仕事の人間関係、娘が抱えたトラブル、健康状態の悪化...。
いくつもの問題が一度に降りかかり、心身ともに疲れてしまった私。
そうなると心もギスギスして、普段仲の良い夫とも些細なことで喧嘩となり、孤独感も増していきます。
しかし、それでも日常は続きます。
「その内なんとかなる」と自分に言い聞かせ、元気なフリをして生活していましたが、内心では限界を感じるほどに思いつめていました。
それでも、私は誰かに弱みを見せることはありません。
それはもちろん母の前でも。
高齢の母に心配はかけたくないですから。
しかしこの時ばかりはどうすることもできず、つい母に弱音を吐いてしまいました。
「あら珍しいわね。あなたが弱音を吐くなんて。まあいろいろあるでしょうね。でもね、変えられないことに悩むよりも、自分にできる事を精一杯やればそれでいいのよ。あなたはよく頑張っているんだから」
母はそう言って微笑んでくれました。
これを聞いた途端なんだか気持ちがすっきり。
ツキモノが落ちたみたいな感覚になりました。
思えばずっとそんな感じです。
昔から私が思い悩んだ時、こんな風に心を軽くしてくれるのが母だったのです。
忘れもしない...中学校の時のことです。
転校をきっかけに、私はイジメを受けました。
無視されたり、おかしな噂を流されたり、モノを隠されたり捨てられたり。
恐怖を覚える出来事すらありました。
私にとっては深刻な悩み。
でも、どうしても親に伝えることは出来ず、当時の私は一人で抱え込んでいました。
しかし、きっと母は私の変化を感じ取ったのでしょう。
「学校ね、無理に行かなくていいのよ。もしあなたが行きたくないならね。私は仕事にいくから家になさい。あなたの元気が一番大事」
ある朝、そんな風に言ってくれました。
「お勉強、得意じゃないみたいだし。行かなくてもそんなに、ね。変わらないかもしれないから。できることがあったらやっておいてね」
そう笑い飛ばしてくれたのです。
きっとこれは母なりの配慮。
深刻にならないようにとの思いがあったのだと思います。
こんな風にして、
「学校に行かないという選択肢」
に気づかせてくれたのが母だったのです。
今でこそ、このような選択も尊重されています。
しかし、私が子どもの頃は「学校に行かない子どもはダメな子ども」と、そんな雰囲気に支配されていましたので、母の選択は相当な勇気が必要だったはずです。
結局、私は「母という味方がいる」そんな力をもらい、いじめを乗り切ることができました。
また、私が結婚を意識し始めた時にも、こんなことがありました。
どうしても結婚に前向きになれなかった私。
それは相手が云々ではなく、私の父との関係の悪さが原因でした。
結婚に対して恐怖心があり、希望を見出せずにいたのです。
「最近のあなたはね、とっても幸せそうに見える。もう、うらやましいくらい。だから、もし今ずっと一緒にいようと思う人がいるんだったらその人にしなさい。きっと間違いないから」
母は悩んでいる私の背中を押してくれたのです。
そして結婚したのが私の夫です。
色々ありますが、
「結婚は幸せがギュっと詰まった宝の入れ物」
そんな風に思える結婚生活を送っています。
これが私の母です。
痛み、悲しみ、迷いなどを心に抱えた時、素早く私の変化に気付いて、私の心を解放してくれるのです。
今回もきっとこれで本当の自分を取り戻せそう、そんな予感がしています。
私は母の娘でよかった。
そしていつか母の身に同じようなことが起こったら、私は母の心を解放できる存在でいたい。
そして娘たちにとってそういう存在になりたい。
そう願うのです。
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