<この体験記を書いた人>
ペンネーム:すずらん
性別:女
年齢:44
プロフィール:もうすぐ母の三回忌。毎日毎日母のことを思い、たまに思いっきり一人で泣いてしまいます。
母がこの世を去って、季節が一巡し、ずっと心残りだったことがありました。それはお世話になった主治医の先生にきちんと会ってご挨拶したいということです。そこで一周忌という節目を前に、先生にアポイントをとりました。先生は忙しいにもかかわらずお時間を取ってくださいました。
先生との出会いは、奇跡的でした。最初の病院で母は、大腸ガンステージ4、肝・肺転移ということで、大腸がん切除はできても、肝臓と肺は取れないと言われました。そこで、様々な大学病院の先生に聞いてもらったところ、肝臓も肺も取れる可能性があると言ってくれた先生が一人いました。すぐにその先生のいる大学病院に移り、手術の日も決定。この手術を担当してくれた方が、のちにお世話になる先生でした。
私は当時実家から離れて暮らしていたのと、生後8カ月の息子がいたので、先生の話を聞きにいくことはほとんど父と妹に任せ、先生に質問したいことを紙いっぱいに書き留めて、妹に託しました。その質問に先生は全て丁寧に回答してくれました。インターネットや本の情報に翻弄されていた私は、患者はもちろん、家族にも寄り添い、いつも時間をかけてゆっくり丁寧に説明してくださる先生に救われました。物腰の柔らかい、とても柔和な表情の先生でした。先生がいつも寄り添ってくれたおかげで、再発したと言われても、抗がん剤治療が辛くても、母は最後まで頑張れたのだと思います。
母は亡くなる4日前、最後の外来の診察にきていました。体もきつかったろうに、診察のときは先生に失礼のないよう身だしなみを整えて、素敵なキャメルのセーターにネックレスをつけ少しオシャレをし、この日は妹が綺麗にメイク。家を出る前、リビングで座る母の顔を朝日が照らした様子は、病人とは思えないくらいとても綺麗だった記憶があります。いつものように先生に失礼のないようにと身だしなみを整えた母は、病院に着くとそれまで車椅子に頼ることなど一度もなかったのに「今日は乗ろうかな」と言って車椅子に腰掛けました。おそらく相当しんどかったのだろうと思いますが、絶対しんどい、辛いなど言う人ではありませんでした。
診察で名前を呼ばれると、母は「歩いて先生のとこまでいくわ」と言って、車椅子を降りて、足も相当浮腫んでいたのに、ゆっくり自分で歩いて診察室に入りました。笑顔で「先生、こんにちわ」と入って行ったその姿は、とても母らしい姿でした。先生の前ではしゃんとしていたかったのだと思います。
その日、母は先生から「ちょっと体を休める為に入院しようか」と言われました。先生には、次に入院するときは覚悟しておいたほうがいいと言われていたので、とても辛かったのですが、そのまま入院し、そして4日後に天国に旅立ってしまいました。
先生には、最後に診察していただいた日からちょうど一年ぶりにお会いしました。私は、先生に最期のときは母は痛かったのか、余命を告げなかったことはよかったのか、ということを聞きました。すると先生は、「最後は意識も薄らいで、おそらく苦しんだりはしていないと思うよ。お母さんよく頑張らはったよ。きっと、最期だということはご自分でわかってはったと思うよ」。言われたとたん、私は妹と号泣してしまいました。
母はきっと「頑張った」と言ってもらえたこと、先生に褒められたことが嬉しかったと思います。母が最後まで力強く生きたことは私の誇りであり、生きていく手本になりました。そして、母と私たち家族に最後まで寄り添ってくれた先生には感謝しても感謝しきれません。
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