SNSの普及が、新たなストレス源になっている――。「世界が尊敬する100人」に選ばれた禅僧・枡野俊明住職はそう指摘します。SNSに振り回されず、穏やかに生きるためには、どうすればよいのでしょうか。そこで、住職の新刊『何を言われても「平気な人」になれる禅思考』(扶桑社)より、繊細な人が傷つかずに暮らすためのエッセンスを連載形式でお届けします。
「平気な人」は、何ごとにも"無頓着"
「無頓着(むとんちゃく)」という言葉は誰でも知っていると思います。
この「頓(とん)」は「貪(とん)」と同源で、「無貪着」も同じ意味です。
貪はむさぼること、執着するということですから、無貪はむさぼらない、執着しないことを意味します。
また、着の部分には「著」という字も使われますが、これは強い命令を意味しています。すなわち、無貪着(無頓着も同じ)は、むさぼるな、執着を捨てろ、ということになります。
仏教では人が克服しなくてはいけない煩悩として三つの毒(三毒)をあげています。「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち) 」がそれ。順に、むさぼる心、怒りの心、愚かな心、ということです。むさぼる心は煩悩の最たるものなのです。
ですから、その心をもたないこと、すなわち、無頓着であることは、人を惑わし、苦しめる、やっかいな煩悩から離れることにほかなりません。
何ごとにも無頓着でいること。それが「平気で生きる」うえでの重要なキーワードである。わたしはそう考えています。
ここでひとつ、確認しておいていただきたいのは、無頓着と無関心は違うということです。無関心はものであれ、できごとであれ、それに対して心を働かせないことでしょう。心がそっぽを向いているといったら、わかりやすいかもしれませんね。
いっぽう、無頓着は対象(もの、できごとetc.)を心で受けとめてはいるのです。しかし、そのことによって心が動かされることがない。静かな心、穏やかな心でいられるのです。
よく、若者世代は政治に無関心といわれます。政治に対して何も思わない。先のいい方をすれば、政治に対して心がそっぽを向いているのがこれです。
いっぽう、政治に無頓着というのは、そのときどんな政治がおこなわれているかは受けとめている、わかっているのです。そのうえで、その政治が自分の意にそまないものであっても、いたずらに腹を立てたり、不平不満にかられたりしない。泰然とした心でいられる。こちらが無頓着です。両者の違いは明らかですね。
ものについても同じです。
卑近な例でいえば、たとえば、隣家がクルマを新しく買い換えたとします。自分が運転免許証をもってもいないし、クルマに興味がなかったら、それについて思うことは何もない、そのことに関心などもたないはずです。
しかし、運転免許証があり、クルマが好きだったらどうでしょう。こんな思いが湧いてくるかもしれません。
「お隣は新車か。いいなぁ。うちも買い換えたい。......あぁ、どうしても新車が欲しくなってきた!」
"欲しい"というむさぼる心が頭をもたげてきています。新車への執着にとらわれています。通勤時に駐車スペースに置かれた新車を見るたびに、欲しいという思いは嵩じるでしょうし、隣家の家族がそろって新車で出かける場面を目撃すれば、新車への執着が増すことにもなるでしょう。
心穏やかではいられないのです。
いっぽう、無頓着な姿とはこうです。
「あっ、お隣さん、素敵な新車を買ったんだな」
ちょっと、そんな感想をもつことはあっても、後はすっぱりそこから心は離れてしまう。心にそのこと(隣家の新車購入)がないわけですから、それまでと変わらない穏やかな気持ちのまま、平気で暮らすことができます。
何ごとにも無頓着でいるためのヒントが禅語にあります。
「非思量(ひしりょう)」
文字どおり、思量しない、考えないということです。余計なことを必要以上に考えるからとらわれる、執着につかまるのです。ぜひ、心に非思量のかまえをもってください。
「考えないことが無頓着の土壌になる」
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5つの章にわたって、「繊細な人が傷つかないための41の教え」を掲載。SNSでも実生活でも「何を言われても平気な人」になるためのヒントが満載です。