迫りくる獰猛な巨大熊。逃げ遅れた刀鍛冶の娘を救った、見知らぬ男の正体は/わたしのお殿さま

『わたしのお殿さま』(鷹井 伶/KADOKAWA)第5回【全5回】

刀鍛冶となるため男として過ごす少女・美禰と、伊勢に流された徳川の若き殿様・松平忠輝の運命の恋の物語を描く、鷹井伶著の長編時代小説『わたしのお殿さま』(KADOKAWA)。時は江戸、紀伊半島の中心部に位置する霊峰を仰ぎ見る地に暮らす、美禰。女人禁制の鍛冶場で、刀鍛冶の名匠である祖父・月国の後継者となるため、鋒国(みねくに)という名を頂き、男を装うように育てられています。その地へ流罪となってやってきたのは、徳川家康の六男・松平忠輝。父の死後3カ月足らずで腹違いの兄である将軍秀忠によって配流にされてしまいます。七月七日、里で行われている七夕の神事を眺めていた美禰。そこに突如、獰猛な熊があらわれて──。神の地・伊勢で巡り会う、運命に翻弄される美禰と忠輝。ふたりの恋の行方は?

※本記事は鷹井 伶著の書籍『わたしのお殿さま』(KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。


五節句の一つ、七月七日の七夕(棚機)は、元々はその字の通り、織物を神に供えて豊作を祈るものだった。それがいつの頃からか、「織姫と彦星」の伝説が絡み、織物だけでなく、技芸全般の上達を願う行事へ変化、さらに短冊に願い事をしたためて、笹飾りをするようになった。

「織姫と彦星」の伝説とは、天帝の娘だった織姫と牛飼いの彦星が夫婦になった途端、遊び惚けて仕事をしなくなった。怒った天帝は二人の仲を引き裂き、間に天の川を置き、年に一度、七月七日の夜にしか会えなくした。この夜、雨が降ると舟は天の川を渡ることができず、二人は会えずじまいになってしまうというものだ。

この伝説を受けて、里では夜に神事が行われる。村の娘たちが、神さまに織物を献上したのち、織姫と彦星が無事に会えますようにと祈る。美しい星空が広がって織姫と彦星が出会うことができれば、その年豊作になり、短冊に書いた自分たちの願いも叶うと信じられていた。

鋒国が里まで下りていくと、ちょうど西の山に夕陽が落ちていくところであった。

神社の鳥居をくぐると、境内には篝火が焚かれ、大きな笹竹の周りに村人たちが集うのが見えた。その中心に、魁がいた。ひょろりとした長身の魁はよく目立つ。魁は人気者らしく、彼の周りには里の娘たちがいて、手に手に短冊を差し出し、笹の上の方へ結んで欲しいと頼んでいた。

しばらくその様子を眺めていると、鋒国に気づいた魁が声を上げた。

「おお、来たんか。こっち、こっちや」

「おぉ」と、手招きに応じて鋒国が近づいていくと、娘たちはみな不思議そうな顔になった。普段、里に出てくることのない鋒国を知っている者は殆どいないのだから、当然といえば当然だ。鋒国にしてみても、魁以外、知った顔はない。

素朴な生成りの木綿衣に袴姿の鋒国とは違い、娘たちはみな色とりどりに染め分けた衣を纏い、髪紐も赤や黄、緑と目一杯着飾っていて華やかだ。

中でも、ひときわ美しい翡翠色の薄衣を纏った娘が、物珍しそうに無遠慮な眼差しを向けてきた。歳は同じか、それとも下か。黒々とたっぷりとした髪、色白で目鼻立ちが整った美しい顔立ちだが、気が強そうな目をしている。

「誰?」

娘が短く問いを発した。

「俺か。俺の名は鋒国......」

と名乗りかけると、魁が補足してくれた。

「月国先生のところの鋒国や。俺の幼馴染なんや。仲良うしたってや」

「へぇ、そんな幼馴染がいてたなんて、もっと早う教えて欲しかったわ。うちの名は小夜や。七尾の小夜。知ってるやろ」

知っていて当然という顔だ。七尾と名乗ったところを見ると、庄屋の娘らしい。

鋒国はこくりと頷き、「あぁ」と小声で応じた。

小夜はまだ値踏みするような目をしていたが、周りの娘たちに宣言するように、こう告げた。

「みんな、仲ようしような」

娘たちがみな頷く。こういう仕切り方はやはり長の娘だ。

それからは堰を切ったように、娘たちが質問を投げかけてきた。

「なぁ、いくつ」

「なぁなぁ、そやったら刀鍛冶してはんの」

「なんで、今まで里に下りてこうへんかったの」

みな興味津々という顔で、矢継ぎ早に尋ねてくる。鋒国は戸惑いを覚えながらも、答えようと努力した。

「十六や。......ああ、毎日、刀鍛冶で忙しいからな」

「ねぇ、短冊は、もう書いた? まだやったらここにあるよ」

 と、別の娘が親切に短冊を鋒国に手渡してきた。

「......おおきに。ありがとう」

「なるほど、どうりで、爪が黒いはずや」

小夜にそう指摘されて、鋒国は思わず手を引っ込めた。よく洗ったつもりだったが、炭はそう簡単には落ちてくれないのだ。

「男のくせに小さい手や。そんなんで槌が振るえるんやね」

小夜は詮索好きなのか、さらに突っ込んでくる。

「はいはい、もうええやろ、その辺で。あっち行こう」

 と、魁が鋒国の手を引いて、娘たちの輪の中から逃れようとした。

「ここにおったら、話もできん」

「魁」

小夜が不機嫌な声を上げた。

「彦星がどこいくの」

 側にいるのが当然と言わんばかりだ。

「ああ、わかってる。ちょっと離れるだけや」

そう答えて、魁は鋒国を連れて駆けだした。

娘たちから少し離れると、魁はやれやれとばかりに息を吐いて立ち止まった。鋒国も同じく、一息つくことができた。

「ちょっとびっくりしたやろ」

「いや別に。......彦星って何や」

「今年は俺が彦星役なんや」

と、魁は苦笑いを浮かべた。

境内脇の川を天の川に見立てて、恋人同士が再会するさまを演じるのだという。

「へぇ、そやったら、織姫役はさっきの子か」

「ああ、小夜や。今年十六になった娘の中から選ばれた。ほんまやったら」

お前がなっていてもおかしくない......そう続けたかったのだろうか、魁は言いかけて口ごもった。

鋒国は聞こえなかったふりをして、「へぇ、楽しみやな」と軽く流した。

すっかり陽が落ちてしまうと、神事が始まった。

棚機女となった娘たちが厳かに織り上げた布を神殿へ献上し、最後は織姫と彦星の出番となる。

篝火が消されると、夜空一面に広がる星の瞬きの音が聞こえてきそうな静けさが辺りを支配した。

無数の星が川面に映り、まるで本当の天の川のようにキラキラと輝やいている。

川上から織姫役の小夜と彦星役の魁を乗せた小舟が静々と進んできた。良きところで停まると、二人は短冊飾りをつけた笹を流し始めた。

神事は粛々と続き、鋒国は真剣に見入っていた。その時であった。

村人たちに交じって見物をしていた鋒国の後ろで、何やらガサゴソと音がした。背後は藪、そして森になっているのだが、何かが動いているようだ。音に気づいた何人かの村人も怪訝な顔で振り返った。すると、ぴょんと白いものが藪の中から飛び出して来た。兎だ。

可愛い白兎の登場に思わず、人々の顔が綻び、鋒国も少し緊張が緩んだ。

が、次の刹那、バリバリと激しく枝が折れる音がして、今度は大きな真っ黒な獣が飛び出して来た。

激しい咆哮と同時に、近くにいた村の男が一人、張り倒されて吹っ飛んだ。

獣の正体は熊だった。それも立ち上がった姿は六尺(約一八〇センチ)はあろうかというほどの巨大な熊だ。

熊は獰猛な外見に似合わず臆病な所があり、通常なら人がいるところには出てこない。ましてや今は神事のさなかだ。誰もがあるはずがない出来事に言葉を失っていた。

一瞬の間の後、どこかで女の悲鳴が上がり、それを合図に人々は我先にと逃げ始めた。泣き叫ぶ子を抱えて走る親もいる。

「急げ、逃げろ。鋒国、早う」

魁が必死の形相で舟の上から叫んでいる。

鋒国も逃げなければとわかっていたが、足が竦んで動かない。

それでも無理やり後ずさりしようとすると、足がもつれそのまま尻餅をついてしまった。その間にも熊はぐんぐん迫ってくる。

獰猛な顔が目の前に迫った。尖った爪、大きな口、牙、赤い舌......。

「わぁっ......」

駄目かと観念して、目を閉じた刹那、鋒国は自分の身体が、ふわっと浮いたのを感じた。目を開けると、見知らぬ男の逞しい腕で横抱きされ、鋒国は宙を飛んでいた。男は人とは思えないほど軽々と跳躍し、熊が登ってこられない高さの岩の上まで飛び上がると、鋒国をそっと降ろした。

「......大事ないか」

男は深く柔らかな声でそう尋ねた。

こくり、鋒国は頷くと、男の顔を仰ぎ見た。

すっきりとした首筋、顎、すっと通った鼻筋、見たことのない男だ。

男は美しく澄んだ大きな目をしている。

男はすぐさま身を転じ、再び、跳躍の姿勢に入った。

岩の下では獲物を奪われた形の熊が、怒りの声を上げている。

男は岩の横に降り立つと、熊を誘うように手招きをし、走り出すや、真っ暗な森へと身を投じた。それを追って、熊も森の中に姿を消した。

辺りに再び静寂が訪れた。

怪我をした男となぎ倒された木々がなければ、本当に熊が出たのかと疑いたくなるほど、あっという間の出来事であった。

「......おい、大丈夫か。しっかりしろ。降りれるか」

気が付くと、魁が岩の下から叫んでいた。

「あぁ、大事ない」

差し出された魁の手を摑んで、鋒国は岩から飛び降りた。

「今のは誰や」

そう問われたが、問いたいのは、鋒国の方だった。

助けてくれたのは誰だろう。いや、あれは人だったのだろうか。

「......知らん。わからん」

鋒国はそう答えるのが精いっぱいだった。

 
わたしのお殿さま

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鷹井 伶KADOKAWA

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※この記事は『わたしのお殿さま』(鷹井 伶/KADOKAWA)からの抜粋です。

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