SNSの普及が、新たなストレス源になっている――。「世界が尊敬する100人」に選ばれた禅僧・枡野俊明住職はそう指摘します。SNSに振り回されず、穏やかに生きるためには、どうすればよいのでしょうか。そこで、住職の新刊『何を言われても「平気な人」になれる禅思考』(扶桑社)より、繊細な人が傷つかずに暮らすためのエッセンスを連載形式でお届けします。
「平気な人」は"いい人"になりたいと思っていない
このところのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の広範な普及にはめざましいものがあります。若者世代では、コミュニケーションの主流がLINEなどのSNSになっているといっても、けっして過言ではないでしょう。
その便利さは十分に認めるところですが、利便性の裏には落とし穴があるのが常。SNSが新たなストレス源になっていることがそれです。
いまは片時もスマートフォンを手放せない人が増えていると聞きます。なぜでしょうか?
ひっきりなしに送られてくるLINEに、すぐさま対応しなければならない、と思っているからです。
たしかに、自分が送ったLINEにすぐ返事をくれる人の仲間内の評判は上々なのでしょう。もしかすると、上々どころか、
「彼(彼女)はいつも真っ先に返事をくれる。たいした内容でもないことにも、必ず、くれるんだから最高だよ!」
といった具合で、最高に〝いい人〟の太鼓判を押されているかもしれません。これがストレスのタネになるのです。その〝いい人〟であり続けるためには、仲間の期待に応えていかなければなりません。
いつでも、〝真っ先に〟〝どんなつまらない内容にも〟返事をする人でいなければならないわけです。
そのためにベッドに入ってからも、枕元にスマホを置いておくことになったりもするでしょう。この状況、気持ちの負担になりませんか?ストレスにはならないですか?
十二分になる、とわたしは思っています。
そうまでして〝いい人〟でいようとするのは、評判が下落することに不安を感じているからでしょう。仲間内から、「最近の彼(彼女)、返事をよこさなくなったね。手を抜いているんだな。なんだかつまらないやつになっちゃった」
そんな声があがることが不安でたまらないのです。しかし、その不安は怖れるほどのものなのでしょうか。禅にこんな公案(禅問答)があります。
「達磨安心(だるまあんじん)」
禅の始祖である達磨大師と第二祖の慧可(えか)大師との間のものです。達磨大師のもとにやってきた慧可が、自分は心が不安でしかたがない、どうか、この不安を取り除いて、安心させてください、と訴えます。達磨大師はいいます。
「そうか、ならば、おまえさんのその不安とやらをここへもっておいで。そうしたら、安心させてやる」
慧可は必死になって不安を探しますが、どうしても見つかりません。そこで、大師にそのことを告げます。大師の答えはこうでした。「ほら、もう、おまえさんを安心させてやった」
禅問答はややこしい、という印象でしょうか。達磨大師がいわんとしたのはこういうことです。
不安に実体などない。自分の心が勝手につくり出しているだけなのだ。だから、探したって見つかるわけがない。大事なのは実体がないという、そのことに気づくことだ。気づけば、それがもう、安心なのである。
評判が下落するという不安にも実体はありません。自分がそう思い込んでいるだけです。試しに〝いい人〟をやめてみたらいかがでしょう。おそらく何ごとも起こりません。
「最近彼(彼女)から返事がこないね。どうしたのかな?でも、ま、いっか」
その程度のことですんでしまいます。これは反論を承知でいうのですが、SNSのつながりは希薄なのです。いつも〝真っ先に〟〝どんなつまらない内容にも〟返事をしていた人が、それをしなくなったからといって、そのことが大きく取り沙汰されたりすることは、まず、ないといっていいでしょう。
安心して、〝いい人〟の看板を下ろせばいいのです。下ろしたって平気です。心はずっと軽くなります。
〝いい人〟でいなくても、心配事は起こらない
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5つの章にわたって、「繊細な人が傷つかないための41の教え」を掲載。SNSでも実生活でも「何を言われても平気な人」になるためのヒントが満載です。