ひとりの人間のなかには、きっとこれくらい膨大な言葉が詰まっているのではないか、それを抱えたまま、人は皆、死んでいくのではないだろうか。間断のない老女のひとり語りから、そんな思いが鎌首をもたげてくる。いったい何を考えているんだろう?と、家族にすら遠巻きにされていたほど口数の少なかった父も、最後のほうは一時間前に食べた食事のことすら忘れてしまっていた祖母も、その内側には溢れんばかりの言葉を抱えていたのではないのか? そうして自分の亡き身内にも思いが走っていくほど、彼女が発していく夥しい数の言葉が小説のなかで迫ってくる。
※この記事はダ・ヴィンチWebからの転載です。
"あの女医は、外国で泣いたおんなだ"と、のっけから、こちらの思考を無視するように、語り手・安田カケイが発していく言葉は、診察を待つ病院の廊下で、周りで咳をする老人や子どもに対する文句、子どもの頃に見た見世物小屋の怪魚やキンタマ娘、八卦見の話......と、脈絡なく続いていく。"おねがいだから、カケイさん。しずかに待ちましょう"と隣で諫めるのは介護ヘルパーの"みっちゃん"だ。カケイは認知症を患っている。"はずかしいなあ、おむつあてて、ガニ股で、手を引かれて、えっちらおっちら赤ん坊歩きするまで長生きするなんて"と思っている。
2021年、「すばる文学賞」を受賞。翌年刊行された本作『ミシンと金魚』は、同賞選考委員の奥泉光さん、金原ひとみさん、川上未映子さん、さらに、町田そのこさんをはじめとする作家からも圧倒的な支持を得ている。単行本はすでに重版10刷。昨秋、受賞後第一作となる『ジョニ黒』を上梓した著者の永井みみさんは、訪問介護の仕事をしながらデビュー作となった本作を執筆した。50代での遅咲きデビュー。"ほんとうは作家になりたかった"という思いのなか重ねてきた様々な職歴、経験。そのなかで育んできた執筆の技、濃厚な思いがその筆致から浮かびあがってくるようだ。
カケイにとって、お世話をしてくれる"みっちゃん"はひとりだけではない。デイサービスにもいるし、ヘルパーでも来てくれる。そんなそれぞれの"みっちゃん"の目線に得も言えぬ温かさや、弱い立場にいる人が抱える理不尽、そこに対する憤りが感じられるのも、介護の仕事に携わる自身の経験あってのことだろう。
そんな"みっちゃん"からの、"カケイさんは、今までの人生をふり返って、しあわせでしたか?"という問いかけから、自分の人生を語り始めるカケイ。箱職人だった父、その父が殴り続け、がまんして、がまんして死んだ母。そのあとやって来たまま母には毎日、薪で叩かれ......。兄が連れて来た男と所帯を持ったものの、子どもが生まれてすぐ亭主は蒸発。生活のために来る日も来る日も彼女はミシンを踏んだ。そうしているうちにまた腹が膨らみだし......と、凄絶な人生がカケイの口からは語られていく。その合間にも、自分のことを自分でできなくなってしまった人の日々が生身の言葉で伝えられる。
だが彼女のひとり語りは、かわいそうとか、哀れとか、読む者の思考をそんなところには向かせない。落語の語り口の如くテンポよく、ユーモアを含ませながら、一気呵成にラストまで連れていく。"あたしはいったい、いつまで生きればいいんだろう"という言葉が、まるでオチにでもなってしまうように、彼女の"生"は、花を咲かせるように、その人生のなか、幾度も爆発していく。
認知症老人のひとり語りを小説に昇華させた一作は、生まれて老いてやがて死ぬ、誰もが辿るその道を、ただ、ただ、照らしてくれるよう。これも人間の当たり前なんだ、いいことだってたまにはあるんだからね、というカケイさんの朗らかな声がどこかから響いてくる。
家族の介護に携わっている人、自身の老いに気付き、戸惑う人、そして今の自分には介護も老いもまったく関係ないという人も、文庫版刊行のこの機会にカケイさんの言葉に耳を傾けてほしい。おそらく自分のなかに抑え込まれていた言葉も、彼女の言葉に連れられてひょっこり現れてくるはずだから。
文=河村道子