「体の不調」や「老後の貯蓄」などの心配事は、誰もが抱えているはず。考えすぎて心の重荷を増やす、嫌なサイクルに陥ってしまっている人もいるかもしれません。そこで取り入れたいのが「禅の習慣」。今回は、google本社で禅の講義を行う話題の禅僧による、「心配を取り除くための"ちょっとした思考のクセや生活の習慣を変える方法"」について、連載形式でお届けします。
※この記事は『心配事がスッと消える禅の習慣』(松原正樹/アスコム)からの抜粋です。
前の記事「キリがない?「心配事のループ」に陥らない方法とは/禅の習慣(1)」はこちら。
■禅の習慣
「心配事の9割は、あなたの心がつくり出した幻。『なるようになる!』の一言で解決する」
どうしたら心配事を手放せるのか。そのヒントとなる逸話があります。
だるまさんの愛称で知られる中国禅宗の開祖である達磨(だるま)大師は、ある日、修行をしていた弟子の慧可(えか)大師に「心配で落ち着かないので、この心配を取り除いてください」と頼まれます。そこで達磨大師は、「その心配をここに差し出したなら、取り除いてあげよう」といい、これを聞いた慧可大師は、ハタと気づきます。
「そうか。心配は心が生み出したもので、実体はないのだ」と。
そうです。心配には実体がないのです。
考えてみると、実体のないものにずいぶんと多くの時間をとられているものです。別の見方をすれば、心配に心を奪われている間は、〝今〟を見る目は完全に留守になっています。
何か心配事があると、それこそが一大事だとばかりに日常を置き去りにして右往左往しがちですが、白隠(はくいん)禅師[江戸時代中期の禅僧。臨済宗(りんざいしゅう)を復興させた]の師である正受(しょうじゅ)老人は「一大事とは、今日只今(ただいま)の心なり」とおっしゃっています。
今、この瞬間に意識を集中することこそが、一大事であるという意味です。
禅は、常に今に焦点を当て、今の連なりが現在であると考える〝ing〟の思想です。常に動き続ける今に心を寄せる練習を重ねることが、心配を手放し、幸福を引き寄せる近道です。
禅は一つのところにとどまることを嫌いますが、心配に心奪われた状態は、答えが見つからないだけに長くとどまってしまいがちで、まさに身動きがとれません。そのとらわれてしまった場所から自分を解放してあげるためには、ひとまずでいいから、答えを出してしまうことです。魔法の言葉は「大丈夫」「なるようになる」。実際にそう口に出して、未来のことはそれ以上考えないクセをつけます。
なるようになる。なるようにしかならない。そうやって心配事を手放せば、未来に向けていた視線が現実へと引き戻されて、嫌でも目の前にあるモノ、コトに焦点があってきます。
今が生きる中心にきたとき、人生への向き合い方そのものに変化があるはずです。期待してください。