1983年のデビュー以来、45枚のシングル、18枚のオリジナルアルバムを発表し、ヒット曲を多数生み出した大江千里。今、彼はジャズピアニストに転向し、NYで活躍しています。
2008年単身NYの音楽大学に留学し、47歳で卒業、そして52歳にしてNYで会社を設立。アーティスト活動をしながら社長業、営業宣伝、交渉契約までをたったひとりで行う、大江千里の50代からのリスタートを、書籍『ブルックリンでジャズを耕す 52歳から始めるひとりビジネス』でたどっていきましょう。
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ポジティブで行こう
Accentuate the Positive
アメリカに来る前にまず不安だったこと。それは「飯(メシ)」。
僕は死ぬほど和食が好き。それに加え、〝東京イタリアン〟と言われる和の要素を取り入れた繊細な味付けの料理が好きである。
果たしてハンバーガーなどの肉食を中心とする濃い味付けの国で、「食」にストレスを感じず生きていけるのだろうか。食べることは根源的なことであり、そこに少しでも不安があるとつらい。
大学に入学してまず驚いたのが、みんな授業中に物を食べること。「食べてはいけない」と一応要項には書かれてあって、先生も注意はする。しかし、あくまでアメリカは「自己選択」の国。気がつくと後ろの席で足を組んでサンドウィッチを頬張りながら堂々と先生に、「マリア・シュナイダーってどの曲も同じに聞こえるのですけれど、何が素晴らしいのですか?」とか、「ジョン・レジェンドって大したことないと思います」なんて、もぐもぐ言われちゃった日には、そのあまりの大胆不敵な態度に驚き、少しだけ大味なストレートさに憧れたりもした。
食べたら食べっ放し。教室の机に置きっ放し。掃除をする人を授業料で雇っているわけだから、「彼らの仕事を奪っちゃいけない」わけだ。教室で、ロビーで、廊下で、トイレで、非常階段で、カフェで、あちこちに散乱した「若気の至り」を見やりながら、「ここで僕はうまくやっていけるのだろうか」とため息をついた。
不思議なもので、そこらへんのビヘイバー(行い)に対し、細かなニュアンスを分かち合える学生同士が国籍や肌の色に関係なく仲良くなる。僕の場合、最初に通じ合えたのはイスラエル人のギタリスト、ロータム。彼は物静かな青年で、学校の近くにあるベーグル屋で毎日挟む具の相談をしながら笑い、足を組み、カフェの外の席でわずかな時間を分け合った。
ビル・エバンスのことを深く掘り下げる1時間のクラス。金曜日の昼過ぎ、小さな教室に男子が15人ぎゅうぎゅう詰めで受講する。イタリアのシシリーから来た自信満々なサミュエルは、入学時にすでにピアニストとして出来上がっていたし、マッチョな思想の持ち主でビルの音楽性をやたら自分流の解釈で封じ込めようとする。たぶん他の学生への威嚇もあるのだろうけれど「音楽性は大したことはない。作曲家としてはいまいちだし、ジャズ度が低い」などと一刀両断の勢い。
「大好きなビル・エバンスの音楽を語り合い、分け合う」クラスで、「前へ前へ自分を強引に押し出す」サミュエルのやり方には内心閉口した。まるで味付けの濃い茹ですぎたパスタを出されたような気分になった。ビルについて語る僕の番が来た。
「ラベルを感じます。クラシック音楽の整合性と美しさ、それに地に足をつけた彼なりのビバップに根ざしたスケールやモードなどが適材適所に加わると、彼の世界観に大きな広がりを感じるのです」
と言うと、先生のリアン(ビルを敬愛している素晴らしいピアニスト)が「もっと詳しく教えて」と促す。「僕はジャズがまだよくできません。学校近くのユニオンスクエアに出るのに、どの道が北側なのか南側なのか、簡単に迷ってしまう。僕にとってジャズとはまだそういうもの。ニューヨークの街のストリート(横の通り)とアベニュー(縦の通り)をしっかり覚えて目をつむっていても迷わなくなる。それが課題なのです。ビル・エバンスの音楽は美しく明快で、そんな僕に勇気をくれるのです」
授業が終わってエレベーターを待っている僕に、ロータムが「よ!」と声をかけに来た。「さっきの話、俺は好きだったな。よかったら一緒に学校の近くの安いバルで飲まない?」
それが最初だった。僕たちはその日、月が頭のてっぺんになって街路樹の隙間から時おり笑い出しそうになる時刻まで、スペインのビールとハモンイベリコ片手に話し続けた。
「アメリカンフードってつらくない?」「時と場合によるかな。ハモス(中東のペースト状の食べ物)の店は増えているよ。でも味がアメリカ的でいまいちな店も多いもの」
へえ、そんなふうに自分の国の料理がアメリカ風にすり替えられることに違和感を覚えるのは、日本人だけじゃないのだな。一気に心が軽くなった。
韓国人のスーヤンは「3(スリー)アベのカフェで甘いもの食べて帰ろうよ」と僕を誘う。歩きがてら、「あの先生が提唱する、どのキーでもリズムチェンジ(ジャズの有名なフォーマットのひとつ)ができるようにならなければ、っていうのはちょっとやりすぎだと思う」「俺もそう思う。だってBなんてキーは大体ジャズに聞こえないもの」
なんだかんだ言って、自分たちもそうやってジャズをああだこうだ語り始めているのが笑える。アメリカの自由人がやっているカフェの「丁寧に淹れたカプチーノとチーズケーキ」で将来の夢を語り合った時間は今でもかけがえのない宝物だ。
味覚的にも「俺たちって似てるよね」と何度も笑った。日本食が韓国に渡ったり、韓国の食べ物が日本に入ってきたりで、二つの国は実は味の類似国なのだ。相手の気持ちを汲んだり思いやったり。白人や黒人のグループと付き合っていてその味の濃さに疲れた時、スーヤンにはアジア人特有の繊細さと舌のボキャブラリーでずいぶん助けられた。
アメリカ生活が9年目に入って僕の舌にも変化が出始める。あんなに毛嫌いしていたアメリカの食べ物がそうでもなくなり、おいしいハンバーガーやステーキに、逆に飢えるようなことが増えてきたのだ。皿を傾けて、盛り付けられた肉に肉汁をかける瞬間のスリル。ミディアムレアに焼いた肉の中から滲み出る旨味、深み。それはまるでジャズのフレーズをひとつひとつ覚えるがごとく、自分の体の中で日常の味となってゆっくりと根付き、汗になるサイクルを繰り返し始めていた。
そういうふうに感じ始めると、アメリカのすべてのレイヤーに目が向く。たとえばニューヨーカーはハンバーガーひとつとってもこだわりまくることとか、グロッサリーでオーダーするときも、「玉ねぎは2枚だけ。トマトは真ん中に少し。肉はミドルレアにして。そうだな、パンは大麦でサラダを横に。あ、きゅうりは絶対に入れないでね」。
横で聞いていると「それぐらいで勘弁したれや」とツッコみたくもなる。でも彼らはおいしいバーガーに真剣なのだ。自分らしいサンドウィッチやハンバーガーを完成させるためには一歩も譲らない。後ろに長い列ができていたとしてもだ。
面倒臭がりの僕も最近はやっと、「トマトは多めに。きゅうりもたっぷり入れて。マヨネーズも入れてね」なんて、頼んでみたりする。そうするとその通りに「カスタムメイド」された、世界に一つだけの自分のハンバーガーがレジに置かれる。面白い。そうか、こういうことか。言えばいいんだ。
仕事が忙しいとバーガーキングでチーズ入りのラージを頼むこともある。ケチャップは多めでダイエットコークもつけて。
「食」は「言語」や「音楽」と共通するものがある。毎日のノイズ、空気感、ひりひりする今日一日を生き残るために必要な「食べ物」を選び、そのエネルギーに背中を押されながら、人は「音」を奏で、「共通言語であるブロークンイングリッシュ」を明快に喋り合う。そこには照れ臭さや他人との比較などは存在しない。そしてNYはつくづくアメリカの中の別の国なのだなと思う。世界中から集まった人たちが自己主張するアミューズメントパーク。
よく「日本とアメリカとでは何が違いますか?」と聞かれることがあるけれども、最近は比べることができなくなってきた。それはまったく違う「世界観」だと思うからだ。両方が魅力的で素晴らしい。
NYには世界中から様々な文化や食べ物が集まっている。留学したての頃の心配は今や冒険心に変わり、ブロッコリの載ったNY風親子丼にも慣れ、独創的すぎる創作寿司にも面白みを感じるようになった。アメリカに住んでアメリカ度が増えたわけではなくて、身体の中の「日本人」が日本にいた頃よりも強くなり、その分心が柔らかくオープンになれたのかもしれない。
ジャズのセッションのように和音やスケール、モードなど数多くの目に見えない決まり事がまだまだある。でもそれを愛する気持ちで心をオープンにしてぶつかると何かを得ることができる。その楽しさがほんの少しわかりかけてきた。
ポジティブであることは受け入れること。あれもあり、これもあり、と面白がれること。どうにもならない命題は世界にゴマンとある。ほじくり出してもしょうがないことを唱えるよりも、「違う」ということに目を開き、相手に耳を澄ます。
今どこに住んでいるのかと聞かれれば、NYのブルックリンなのだけれど、自分自身でいるためにたまたま地球上のどこかに足をつけている。それがこの場所なのだという感覚が最近はある。