1983年のデビュー以来、45枚のシングル、18枚のオリジナルアルバムを発表し、ヒット曲を多数生み出した大江千里。今、彼はジャズピアニストに転向し、NYで活躍しています。
2008年単身NYの音楽大学に留学し、47歳で卒業、そして52歳にしてNYで会社を設立。アーティスト活動をしながら社長業、営業宣伝、交渉契約までをたったひとりで行う、大江千里の50代からのリスタートを、書籍『ブルックリンでジャズを耕す 52歳から始めるひとりビジネス』でたどっていきましょう。
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青い雨
Blue Rain
真っ青な空を見ることがある。日本にいた頃に記憶にない特別な青色がそこにある。あれは一体なんなのだろう。「そうそう、あの色って紺碧だよね」
NYに昔から住む日本人の友達に聞くと、そう口を揃えて言う。おそらく、空気の澄んだ日、雨が降った後に起こる現象だと思うのだが、それがとてつもなく美しい。
舞台のホリゾントに映し出したように幻想的な色。あの空の色が現れる前、激しい雨がバケツをひっくり返したように一気に降る。時々雷鳴を含み、針の雨が道路に刺さる。濡れた車道に筵(むしろ)のように跳ね上がる無数の雨が信号の赤や黄色や青のライトを乱反射させる。そして雨が上がった後、凸凹(おうとつ)のレンガの古い建物の壁沿いに広がる空にいきなり青の魔法がかけられる。暮れていく空にひたすら広がる紺碧。
僕はその手前の雨を「青い雨」と呼んでいる。雨の景色に溶いた様々な光の絵の具が、いつしか車道にグラフィティを描く。それがだんだん「紺碧」を仕上げていく。
自分が生きている間に、そんな珍しい現象や色に出会えるチャンスはいったい何回あるのだろう。
ブルックリンの道はでこぼこで全くもってひどい。
「だいたい、ブルックリンは道を直すお金がないんだよね。雪掻き車が掘り起こした車道のでこぼこに、次の冬までコーンを逆さまに突っ込んどくなんて普通だし、夏には消火栓の水がパレードの仕掛けのように吹き上がるのを誰も止めもしない」
ニューヨーカーはそうこぼす。電車に乗ると、目や鼻や口が車内に落ちてピンポン球のように転がりまくるかと思うくらい揺れる。乗客はそれらを丁寧に拾い集めて元の顔に戻し、何事もなかったように目的の駅に着くと淡々と降りてゆく――そんな漫画のようなイメージを頭で想像してぷっと吹き出しそうになるのを堪(こら)える。街の不便や不都合に誰も文句を言わないばかりか、楽しんでいる気配さえある。
街全体が古びていてメンテの必要はあるのだろうが、それをだましだまし使っているところがまたNYの魅力だったりもするから。そんなガタガタの街をあきらめにも似た気持ちでニヤニヤ眺めている。どしゃ降りの後の暮れゆく空は、見事にそんな街のあれこれを包んで青く染め上げていく。
NYに移ってきてから、普段着る服さえずいぶん変わったように思う。
チーフを胸ポケットからチラ見せするとか、パンツの後ろのポケットから差し色のバンダナを出すとか、そういう気の利いた装いの感覚はこの街のガタガタの日常の中ではあまり用をなさないのかもしれない。
白のTシャツにジーンズに使い古したスニーカー。それこそがこの雄弁なノイズと光溢れる街にはマッチしている。ワールドプレミアや一流レストランのオープニングに人々は仮装してタイを結んでも、すぐに素の体裁に戻り、金持ちもそうでない人も普段着でざくざくでこぼこ道を歩く。
青い空のキルトが、街のダイバーシティ(多様性)を混ぜ込んだバケツの水をひっくり返したように降る雨のレスポンスだとすると、そこには僕らのこれだけ生き尽くしても報われない想いが、この色を作り出しているのかもしれない。
自分の目が作り出す青という芸術。空全体がビルに切り取られて色を失い、行き場を失くし、それを雨に濡れた道に託す。一針一針縫ったキルトのように、雨の縫い目はしっかりとタイヤの跡を車道に残し、雨があがった後の空に紺碧の色が鮮やかに浮かび上がる。
僕は傘を持たない人なので、降り始めるとそのまま覚悟して歩き続けるか、雨宿りをする。知らない店のシェードに逃げ込み、偶然横にいる人と立ち話をする。ひどい雨に変わると、そのまま一生その場で暮らさなければいけないのだろうかといたたまれない気分になるほど、そこにいる。
ふと信号が青に変わる。変わっても、道を渡って行くことはこの雨だとまだできない。瞬間に光る青のツブツブが水たまりの中に針で刺したような模様を作ってゆく。
偶然隣り合わせた人と、気が合ってつい長話になったりする。雨がやんだことなど気にもせず会話に熱中して、その時間の中に身を委ねることもある。
我が家のデッキは、なぜか家賃には見合わない大きさがある。そのデッキに近い窓の近くに僕のピアノはあって、毎日そこで練習をする。ときどき、つらいことやいたたまれないことを乗り越えると、あの見覚えのある青の絨毯が空から降りてくる。
どれだけたくさんの人が、この街でエゴや欺瞞(ぎまん)を投げ捨てたことだろう。
そのすべてを混ぜこぜにして洗い流すかのように、あちこちでチクチク雨の針は地面やデッキを刺し続ける。
降り始めの、ぱちぱちぱちという音がとくにせつない。それを聴きながら、なおもピアノを弾いていると、あたりは一気に灰色から黒の世界に豹変する。どこまでも出口のない迷路のように。
そんなとき、ふと自虐的にフードを被って外へ買い物に出る。自分の足音の数だけ雨に微かな抵抗をして、ずぶ濡れでデリへ向かう。
「ホッケーはどっちが勝ったんだっけ?」
「ホセの親父が病気になったってよ」
このあたりにはバーなどはなく、デリやコンビニが、そのまま即席バーとも言える憩いの場所になるのだが、笑い声が起こり、人々は傷をいやし合うように集う。愛想笑いしながら買い物を済ませ外に出ると、雨が小降りになっている。
紺碧を超えた今まで見たこともないような不思議な色をした空を見た。
青色でありながら灰色なのだ。
灰色でありながら赤茶色で。
その奥には紫や緑や他の色を含んでいる。
濃厚なワインのような含みのある空だ。
もしかしたら自分がそういう色を見る年齢になったのかもしれない。
老眼になり、鳥目になり、色や視力を失いつつある自分の目が、なにか別の能力(フォース)を手に入れたかのように。