1983年のデビュー以来、45枚のシングル、18枚のオリジナルアルバムを発表し、ヒット曲を多数生み出した大江千里。今、彼はジャズピアニストに転向し、NYで活躍しています。
2008年単身NYの音楽大学に留学し、47歳で卒業、そして52歳にしてNYで会社を設立。アーティスト活動をしながら社長業、営業宣伝、交渉契約までをたったひとりで行う、大江千里の50代からのリスタートを、書籍『ブルックリンでジャズを耕す 52歳から始めるひとりビジネス』でたどっていきましょう。
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良き人生
The Good Life
ブルックリンに引っ越してから早いもので5年目に入る。
それまではニュースクール(The New School for Jazz & Contemporary Music /ニューヨークの音楽大学)で同期のドラマー、テップと12丁目のアパートをシェアしていた。
テップが一人暮らしを始めたいと言いだし、僕も自分の時間をもっと欲するようになったので、それじゃあそれぞれの部屋を借りようということになり、春学期の終わりに荷物を出し、僕の分は倉庫に一旦入れた。
2セメスターのみをその先に残した長い長い夏休みを日本で過ごし、そのあとブルックリンハイツのサブレット(家具付き又貸しアパート)に、ぴ(ぴーす・ダックスフント♀)と二人転がり込んだ。
一度日本に帰る前に仮契約までいったユダヤ人オーナーの新築アパートは、よく契約書を見ると「October ~」とある。レントは10月から?僕は完全に「August ~」と勘違いしていて、そこに入るつもりで何度も内覧に通っていたのだ。老眼のせいというより、思い込んだら8月から入れるのだと契約書の内容を勝手に変換した自分を呪った。
新居探しはそれから振り出しに戻り、「アパート貸します」情報をネットで洗い、一日に何軒も見て回る日々が続く。そんな中、シアトルから来たミッシェルというメキシコ系の青年ブローカーに出会った。「千里はおそらく音を昼夜関係なく自由に出せる、いわゆる音楽家としての物件を探しているよね」
ありがたい理解。「それならちょっと待って。日が暮れるまでにもう一軒見れるかな?
僕の知り合いのオーナーがそういうノリのアパートを持っている。今ちょっと電話するね。もし大丈夫だったらあと1時間だけ内覧に時間を割けるかな?」
ミッシェルが目を輝かせる。
そんな成り行きで今のアパートを夕焼けの時間帯に見て惚れ込み即決、仮契約、本契約とトントン拍子に住み処が決まったのだ。
リビングが少し狭いが、ぴと二人で過ごす分にはむしろそのほうが便利かもしれない。それにNYでは珍しく部屋の中に洗濯機と乾燥機が装備されていた。家で洗濯ができる。寒い冬の夜、サンタクロースのように洗濯物を担いでコインランドリーまでの雪道を歩かなくて済む。
もうひとつ、ここが一番惹かれたポイントだが、40畳ほどのウッドデッキがある。これがあればBBQも出来るし、ぴも大喜びだ。案の定引っ越してきて一番先にぴがやったのは大きなデッキでの練り歩きとお昼寝。僕はこの上に冬物の衣類を全部出して天日干しをした。
大家はイタリア系アメリカ人ジョセフ。「僕も音楽家なんだ。下に住んでるから時々セッションしよう。あ、そうだ。引っ越してきた一夜目は、僕のお爺ちゃんの代から通っているイタリアンレストランへ行くといい。もしよかったら車に乗せて連れて行ってあげるよ」
気がつけば、ブルックリンに引っ越してから4年の月日が過ぎている。『僕の家』という本の中でも書いたのだが、僕には比較的短い期間で引っ越しを繰り返す癖がある。ここに4年もいるのは快挙と言える。なぜか?
そう言われてみれば何度か「そろそろ引っ越そうかな」と思ったこともあるにはある。不思議なもので、そういうときに限ってジョセフの手下のホセ(メキシコ人)がドアをおもむろにノックする。「千里が前言ってた呼び鈴なんだけどさ、新しく鳴りのいいやつをつけようと思うんだけれど、今日の午後時間をくれないかな」とか、「セントラルヒーティングをもっと効きのいいのに換えてあげようか」とか、心の声を盗聴されていたかのように住みやすくアップグレイドしてくれる。
ゴミ箱を管理しているジョセップおじさんも、恥ずかしがり屋だけれど仕事が丁寧でいい人だ。大家ジョセフは、ブローカーのミッシェルが僕にこのアパートを紹介したときに「俺があいつにはきちんと支払いするから、千里はいっさい払わなくていいよ」と言った。だから、ホセにだってジョセップおじさんにだってチップをいちいち払う必要はない。
しかし、さすがに3年目あたりから心からの感謝を直接伝えたくて、クリスマスや感謝祭にポチ袋に50ドル札を入れて、ジョセフには内緒で彼らに渡すようにした。
ホセもジョセップおじさんも最初「ええ、そんなのいけないよ」と言って拒否する。でも、僕から半ば強引にポチ袋を握らされた。
あれは去年だった。感謝祭のときに、そうやってジョセップおじさんにポチ袋を渡し、ぴの散歩に出かけた。ヒーブル(厳しい戒律を守る正統派ユダヤ人)の居住区の中を20分ほど歩き、アパートのある通りに戻った。
ゴミ箱の置いてあるエリアを徹底的に掃除して、最後のゴミ袋を出し終えたジョセップおじさんが、「ふ~」とため息をついて、思い出したかのように何かをポケットから取り出した。それは僕がさっき「受け取ってください」と渡したポチ袋。その中に入っている50ドル札を確認すると、ジョセップおじさんは手を合わせて空を見上げ、顔の前で十字を切り深くお辞儀をした。
居合わせてはいけない瞬間に戻ってきてしまった。僕は踵を返し、もう一回り散歩を続けた。アメリカには「チップをもらうことが当たり前になっている人たち」が余りに多いことに辟易していた僕の心に、ジョセップおじさんの一部始終は温かいものを通わせてくれた。
そのジョセップおじさんがこの秋の深まった頃、突然いなくなった。背格好がよく似て体型もそっくりだが、おじさんというには若すぎる大男がジョセップおじさんの聖地を掃除し始めた。
今度の男もさくさく手際が良い。が、なんだか物足りない気分で僕もゴミ出しを続け、あっという間に2週間が過ぎてしまった。ジョセップおじさんが病気か、下手したら亡くなってしまったのではと心配でしょうがなかった。感謝祭に渡すポチ袋も用意したのに渡せずじまい。そんなこんなで年を跨いだある寒い朝、見覚えのある背中がゴミ箱を掃除していた。
あ、ジョセップおじさんだ。一瞬駆け寄りそうになったが、僕はいつもと同じようにゆっくりゴミ袋を持って、「Good Morning!」と彼の背後から声をかけた。
すると、僕の知っている照れ屋な笑顔のジョセップおじさんが振り返った。
こらえきれずに「辞めたのかなと思って寂しい気持ちでいっぱいだったよ」と言ったら、おじさんは「ありがとう。妻と一緒に貯めていたお金で長期のバカンスに行っていたのさ」と嬉しそうに目を細めた。そうか、そうだったのか。僕は心の底から安堵して、「よかった。また会えて」と思わず言った。おじさんも「うん」と頷いた。
賃貸アパートだと、引っ越しは突然にやってくる。が、少なくとも僕はもうしばらくこの家で毎日、音楽を作り食事を作り練習をし、ゴミを出しにここへ降りて来よう。そして「ごめん、このゴミはどれに入れればいい?」とジョセップおじさんに聞く。するとおじさんは優しい顔で「そこに置いておけばいい。あとは僕に任せて」と答えるだろう。
今日も階下から響く大家ジョセフのイタリア語とスペイン語の入り交じった歌声を聴きながら、結構これって「良き人生(The Good Life)」かなと思う。
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