母子家庭で育ててくれた実母を老人ホームに入れるのは「最善」か/岸見一郎「老後に備えない生き方」

「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載、哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「答えの出ないことがある」。岸見さんは毎日が発見の読者からの相談にどのように回答されるのでしょう?

pixta_45184743_S.jpg「好」(ハオ)と「杯」(ファイ)

『晩秋』という韓国映画がある。暴力を振るう夫を誤って殺した女性が、母親が亡くなったので葬儀に参列することを許され、七十二時間だけ刑務所から出た時に起こる出来事が描かれている。

彼女は中国人だが、その彼女に韓国人の男性が声をかける。互いに相手の母語がわからないので二人は英語で話す。最初は警戒するが、やがて心を許し始める。

ある時、彼は自分が知っている唯一の中国語は「好」だといった。しかし、その意味は"bad"だという彼に彼女は「好」は"good"で、「坏」がbad という意味だと教える。

「好」も「坏」も、ここまで明らかにしたギリシア語と同様、道徳的な意味を含まない。それぞれ「善」と「悪」に対応する。

彼は彼女がいうことに「好」か「坏」で答えた。最初は英語で話していたが、途中から彼女は中国語で話し出す。それなのに、中国語がわからないはずの彼は、彼女のいうことに「好」か「坏」と答える。

「私は彼なしでは生きられないほど愛していた」
彼というのは、夫ではない別の男性のことである。
「坏」
「でも、彼は去っていった」
「好」

無論、彼は中国語がわからないので、男性が去っていったことを間違って「好」といったとも取れるが、私はこの場面の二人のやり取りを聞いて、アウレリウスの善悪無記のことをすぐに思い出した。

状況から離れて、あることが絶対的に「好」なのか「坏」なのか、つまり、先の議論の言葉でいえば、「善」(ためになる)なのか「悪」(ためにならない)なのかは決められないということである。

絶対的に善か悪か決められないので、何が善か悪かを判断することは難しい。状況を離れて絶対的に決められないというのは、前に(第5回)見た事例を振り返ると、次のようなことである。

関連記事:「娘に腎臓提供するのは親として「当然」のことなのか?/岸見一郎「老後に備えない生き方」」

慢性腎不全で週三回血液透析を受けている十八歳の女性がいた。医師から腎移植の提案がされた。検査の結果、彼女に腎臓を提供できるのは母親だけであることがわかった。

このような場合、母親が娘のために腎臓を提供するのが当然だということにはならない。腎臓の定着率は百パーセントというわけではなく、場合によってはすぐに摘出しなければならないこともありうる。親の側にも腎臓を摘出することに伴うリスクがあるのである。

医学的な問題に加えて、対人関係の問題も起こりうる。このケースの場合は、母親は娘のために腎臓を提供できるのは自分しかいないのはわかっていたが、夫の母親から「母親ならそれくらいのことをしても当然よね」といわれたために、割り切れない気持ちになった。

この母親から相談を受けたとすれば、親だから当然とはいえない。この母親が置かれた状況を吟味し、腎移植について母親にも娘にも「善」となる判断が下せなければならない。

先に引いた『晩秋』の女性は夫を殺害したために服役していた。殺人に対しては同じ罰が科せられるわけではない。動機の有無、あればその内容、計画的なものだったのかそうではなかったのかなどが吟味され、判決が下され、刑罰が決まる。


その時々の最善

これまで見てきたように、起こっていることが善なのか悪なのかは簡単にはわからない。だからこそ、判断は慎重にする必要があるが、いつもわからないといっていては生きていくこともできなくなる。

悪だと思われていることを経験した時には、「好」といってみるのもいいかもしれない。病気についていえば、他の人に病気になってよかったではないかというようなことはいってはいけない。しかし、自分については、よかったことはなかったかを問うていいと私は考えている。

もちろん、突然入院することになった時には、このように思う余裕などないが、病気をどう受け止めるかは自分で選ぶことができる。深刻になっても、病気がよくなるわけではない。

読者からの相談を見てみよう。

「実母を介護していましたが、一年半前に特養(※)に入れました。母子家庭で育ててもらったのに母に申し訳ないと思っています。今母が幸せな生活を送っているのか不安です」

※特養=特別養護老人ホームの略

できるものなら親の意思を確認したいところだが、それができないことはある。できるものなら自分で介護をしたいと思っても、できることはできることだけである。特養への入所は、その時できることの最善の選択だったと思ってほしい。

生きることは絶対の善

「長生きすることが最善とはいえないことがある。本人をはじめ、親や親族すべての合意があれば安楽死の合法化は認められるのか」

善悪無記についてこれまで見てきたように、善とも悪とも決められないことは多々あるが、生きることは、他のこととは違って、絶対の善だと見ておかなければならないと考えている。生きることがもしも状況を離れて善か悪かを決めることはできないとすれば、ある状況にあっては生きることが善ではない、つまり、ためにならない場合があることになる。

人は何もできなくても生きているだけで価値がある。幼い子どもたちは何もしなくても、生きているだけでありがたいと親は思うのではないか。

大人も同じはずなのである。歳を重ね、また病気のために何もできなくなったからといって生きる価値がないはずはない。ただ生きていることには価値があると思えなくなるほど、今の時代は生産性で人の価値を見ようになってしまっているのである。

本人が延命治療を受けたくないと考えることを止めることは難しい。しかし、前にも(第5回)見たように、その決断が信仰上の理由や持続的な痛みを回避したいからではなく、家族に迷惑をかけたくないからというのでは悲しい。

また、自分についてではなく、他者について、この人は何もできないのでもはや生きる価値ない、だから延命治療を受ける意味はないと判断するようなことがあれば危険この上ない。

※本文中の太字は、読者からの相談とご意見です。

※岸見一郎「老後に備えない生き方」その他の記事リンク集はこちら

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年7月号に掲載の情報です。

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