不要なものを整理したいが捨てがたく、捨てる決断ができない/岸見一郎「老後に備えない生き方」

『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「持てないものを手放そう」です。

不要なものを整理したいが捨てがたく、捨てる決断ができない/岸見一郎「老後に備えない生き方」 pixta_2581951_S.jpg

 

最初は整頓から

ある時、片付け方について取材をしたいとある雑誌社から連絡があった。きっと私の部屋はキレイに片付いていると編集者は考えたのだろうが、私の書斎は本で溢れかえっているのでとても私が片付け方について話せるはずもないと思って取材を断った。

読者からの相談に整理についてのものが多い。

「故人の写真などがたくさんありますが、どのように整理すればいいのか。まずは自分のものからと思ってやり始めましたが、それもなかなか捨てがたいのです。一枚でも二枚でもゆっくり処分できたらいいのではと思っています」

「夫が亡くなってから不要なものを整理しています。特に食器や花瓶です」

「身の回りの片付けをしたいのですが、決断できません。思い出の品々を処分したいのですが」

いきなり処分することは難しいので、最初は今持っているものを整頓するところから始めたい。

哲学者の三木清(1897~1945年)がこんなことをいっている(三木清『人生論ノート』)。

「例えば初めて来た家政婦に自分の書斎の掃除をまかせるとする。彼女は、机の上やまわりに乱雑に置かれた本や書類や文房具などを整頓してきれいに並べるであろう。そして彼女は満足する。ところで今は私が机に向かって仕事をしようとする場合、私は何か整わないもの、落ち着かないものを感じ、一時間もたたないうちに、せっかくきちんと整頓されているものをひっくり返し、元のように乱雑にしてしまうであろう」

きちんと片付けをしている人には到底受け入れがたいことかもしれないが、人から見れば散らかっているように見える部屋も、その本人にしてみれば自分なりに整理されている、つまり秩序がある。

なぜきれいに整頓されても落ち着かないかといえば、そこには「心の秩序」がないからである。

「外面上極めてよく整理されているもの必ずしも秩序のあるものでもなく、むしろ一見無秩序に見えるところに却って秩序が存在するのである」(同上)

まずは自分で納得でき、自分が生活しやすいように整頓をすればいいので、他の人にどう見えるかを最優先にすることはない。

必要でないと判断したものを処分することは可能だが、読者の相談にもあるように、「捨てがたく」、捨てる「決断」ができない。処分することは外的な秩序をもたらそうとすることであり、たしかに見た目はスッキリするが、必ずしも心の秩序とは一致しない。なぜそうなのか。

 

処分することはできない

ソクラテスの流れを汲むディオゲネス(紀元前412年ごろ~323年。古代ギリシアの哲学者)という哲学者がいた。彼は生活上の必要を最小限にまで切り詰め自足した生活を送っていた。ある日、手で掬(すく)って小川の水を飲む子どもを見て、「私はこの子に負けた」と持っていた頭陀(ずた)袋に入っていた茶碗まで捨てたと伝えられている。

何もかも手放してしまえば、たちまち生活に困るだろうが、身の回りのものを整理したいと思う人はできるものならディオゲネスのように生きることが理想と思えるのではないか。

私の場合、本が書斎に溢れかえっている。一番簡単なのは、必要でない本を処分すればいいのである。しかし、実際にはそうすることは難しい。なぜなら、今は必要でないと思っていても後に必要になると思うからであり、実際、必要になるからである。

実際に処分しなくても人に本を貸した時でも、その本が必要になった時に手元にない時にたちまち困ってしまう。当面必要がないという判断が間違っていたことに気づくことはよくある。

処分することに何のためらいも感じないものなら迷ったりしない。後に必要になるかもしれないと思うと迷いが生じるのである。

さらに問題は、処分しようとするものが「もの」ではないからだ。単なる「もの」なら、どんどん捨てられる。スッキリとした気持ちにもなれる。ところが、思い出が詰まっているものは「もの」ではない。いつどこで買って読んだのかなど、本を処分しようと思っても手にすればたちまちこの本はいつどこで買ったかが思い出される。

だから、本を処分しようと思ったら、本を開いてはいけないのである。開かなければ思い切って捨てることができるかもしれないが、一度開いてしまうと時間を忘れて本を読んでしまう。

アルバムも同じである。写真に見入ってしまう。故人の遺品であれば、その人のこと、またその人と過ごした日々のことが蘇る。

このように過去の思い出の詰まったものを処分するということは不可能なのではないか。もう中は見ないと、思い出を封印する形で処分すれば処分できないわけではない。しかし実際、ものは増え続け、少しでも身軽になる必要はある。どうすればいいのか。

 

所持も所有もしない

私は今この原稿を書いている時に時計を腕にはめている。私は時計を「所持」している。この時計を外したら私は時計を所持していない。しかし、所持はしていなくても私はこの時計を「所有」している。

まず、所持しているものを手放そう。手放しても、私のものであることには変わりはないから。

さらには、所有すらできないものもある。

ドイツの社会心理学者である、フロム(エーリヒ・フロム。1900~1980年。代表作は『自由からの逃走』『愛するということ』など)がテニソン(アルフレッド・テニソン。1809~1892年。イギリスの詩人)と芭蕉を引き、「持つ」ことと「ある」ことの違いについて論じている。(Fromm, Haben oder Sein, DeutscherTaschenbuch Verlag)。

人知れず咲いている花を見た時、それにどう反応するかは人によって違う。

花を摘み自分の部屋に持ち帰りたいと思う人は、自分の目の届くところに置いて花を愛でたいと思う。

テニソンは花を「持つ」ことを選んだ。
「ひび割れた壁に咲く花よ
私はお前を割れ目から摘み取る私はお前を根ごとこの手に持つ」(テニソン)

ある人はただ花を眺めるだけで満足する。その花をスケッチしたり、写真を撮ったりしても、花を手折ったり、摘もうとは思わない。

芭蕉は花が咲いているのを見ることを選んだ。
「よく見ればなずな花咲く垣根かな」(芭蕉)

花を摘みたいとは思わず、触れようとすらしない。ただ、なずなが「ある」のを見るだけだ。

フロムが同じ本で引いているゲーテの詩の中の花は、自分を摘もうとする詩人に訴える。
「木陰に私は見た
一輪の花が咲いているのを
星のように輝く
美しい瞳のごとく
摘もうとした私に
花はやさしくいった
折ればすぐにしぼんでしまうのに」

哲学者の三木清は『人生論ノート』の中で、次のようにいっている。
「アウグスティヌスは、植物は人間から見られることを求めており、見られることがそれにとって救済であるといった」

 

今年の夏は次から次へと災害があった。暴風が吹き荒れた翌朝、恐る恐る見に行くと朝顔が何輪も咲いていた。はたして花が見られることを求めているかはわからないが、嵐の後に花を咲かせた時、私はちゃんと見届けたからね、と話しかけたくなった。

本やアルバムは単なる「もの」ではないので、簡単に処分することはできない。私を開いて見てほしいと訴えかけているからである。

だからこそ、大切に手元に置いておきたくなるのだが、一つの対処の仕方としては、ちょうど花を手折ろうとはしないで、ただそれを見るだけに留めることである。

ものはいつの間にか増えていく。私の場合、本は一度家の中に入ってくれば、二度と出ていくことはないといっても過言ではない。他のものも先に見たように思い出が詰まっていれば処分することは容易ではない。それでもいつか手放さなければならない時はくる。

たとえ、自分で処分しようと思わなくても、災害で失われることもある。この場合、辛いのは、ただものが失われるからではない。自分自身の人生の一部を失った気がするからである。

しかし、見えなくなっても、ものとしては見えなくなるだけで、それがなくなるわけではない。桜の花は散っても、その咲き誇った花はいつまでも記憶の中に留まるように。思い出はいつまでも残る。

 

思い出は消えない

その思い出も持つものではない。過去のことだけでなく、今何かを覚えようとする時も、知識を持つことはできない。試験の直前まで教科書を必死で暗記しようとした人は多いだろう。しかし、そんなことをしても試験問題が配られたらほとんど役に立たない。どれほど教科書に赤線を引き、声に出して暗記しようと思っても知識は持てないからである。

しかし、知識も過去の思い出もふと蘇る。知識であれ経験であれ何かを記憶するというのは、飛び交っている鳥を網で捕まえ、それをどこかに閉じ込めようとするようなものである。網で一度に捕まえられる鳥の数には限りがあるので、捕まえたら籠に入れなければならない。何かを思い出すというのは、籠の中にある鳥のことをふと思い出すという感じである。狙っていた鳥は捕まらず、思いがけない鳥が網の中に入り、それをも籠の中に入れておくということがある。すべてのことを意識的に覚えるわけではないのである。

覚えるというのは、別の喩えでいえば、手にしている本を本棚に並べるようなものである。

このように、知識を持たなくても、必要な本が本棚のどこにあるかがわかり、必要があればそれを取り出すことができるのであれば、試験の直前に必死で覚えなくてもいいのと同じように、思い出の品に執着しなくていいのである。

この書棚に収められる本をできるものなら精選したい。つまり、よくない思い出は消すということである。

以前、とらわれの事例として、次のような話を紹介した。雲一つない天気のいい日、夫が朝出かける時、妻から「今日は雨が降るかもしれないから傘を持って行きなさい」といわれた。夫はこんないい天気なのだから、雨など降るものかと振り切って出かけたが、夫はその日家に帰るまで何度も空を見上げた。それがとらわれである。

このようなとらわれや過去に経験したことに執着するのをやめれば、よい記憶だけが蘇るようになる。

ものについては以上見たように、処分することは可能である。なぜそれが難しいかというと、単なる「もの」ではないからである。しかし、知識や思い出についての考え方を変えることによって、ものを処分することは可能になる。時計は所持していなくても、自分の時計として所有できるように、処分した結果たとえ目の前に思い出の詰まったものがなくなっても、思い出までもが消えるわけではないからである。

もちろん、思い出せなくなることもあるだろうが、それは今は必要ではない思い出である。それを無理に思い出そうとしなくても、必要があれば思い出すことができる。

 

次の記事「「終活に入るから」と、年賀状を出さない知らせが届くことに違和感/岸見一郎「老後に備えない生き方」(2)」はこちら。

※この他の「老後に備えない生き方」はこちら。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2018年12月号に掲載の情報です。
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