身勝手な態度に憤りしかなかったけど...振り返ると子育ての支えだった義父の孫への愛情

身勝手な態度に憤りしかなかったけど...振り返ると子育ての支えだった義父の孫への愛情 pixta_30429186_S.jpg

ペンネーム:涼
性別:女
年齢:61
プロフィール:突然の同居することになり、私は義父に憤りを感じていました。でも、義父の息子に対する愛情が、長らくの子育てを支えてくれたのもまた事実です。

※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。

次男が生まれる少し前から主人の給料が遅配になり、生まれてからは全く収入がなくなりました。主人は会社を辞め、主人が両親のために借りていたマンションで同居することになりました。長男2歳3カ月、次男3カ月のことでした。

私は、主人の減収を補うために近くのスーパーで働くことにしました。ですが義父は1日4時間だけのパートが気にいらなかったようで、パートを終えて14時過ぎに昼食をとる私にいろいろ言ってくるのでした。

「たった4時間だけなんて働いているとは言えない。子どもはかあさんに任せてもっと働いたらどうなんだ」
突然の引っ越し、義父母との同居、スーパーのレジの仕事と、心の休まる時がない私は、そんな義父の言葉に腹が立ちました。

義父は、肺の病気を患い、ふるさとの海辺の街の潮風が体によくないこと、また自営の靴屋は続けられないことから、4年前から主人が東京に呼んで生活をみていたのでした。

義母は、自宅で人形の製作の下請けの仕事をしていました。肺の機能がおちている義父は、少し歩いただけで呼吸が苦しくなるため、オートバイで老人クラブに囲碁を打ちにいく以外は、家でのんびり過ごしています。
お風呂に入るとうとうとしてしまうほど疲れている私を、「働かない嫁」と思っているのかと思うと悔しくて、言い返したいと何度思ったことでしょう。

ただ、義父は私の作るものには文句を言わず、「こんな食べ方もあるのか」と言ったり、「おいしい」と言ったりしてくれる面もありました。

主人の姉と妹にはすでに子供がいて、私の長男は義父母にとっては6人目の孫でしたが、義父母は子ども達をとてもかわいがってくれました。母乳が全く出ない私だったので、時には義父がミルクをあげてくれたのです。

義父は「○○さん、わしは4人の子どもにも他の孫にもミルクなんかあげたことないんだよ」とうれしそうに言いました。次男の足をさすり、「この子は足が大きいから、大きな子になるよ」とニコニコしていたこともありました。

 

同居して4カ月を過ぎた頃、子供たちの風邪がうつり、義父は肺炎になり入院することになってしまいました。検査の結果、右肺は全く機能していなくて、左肺も弱っていることがわかりました。そして、数週間後には、義父は人工呼吸器をはずせなくなりました。その頃特にかわいがってくれていた次男の顔を見せれば、少しは元気になってくれるかなと思い、次男を連れて病院に行きました。

義父は、次男の顔を見るとベッドのそばに連れてきてくるようにと、手招きしました。義父の枕元に次男を座らせると、義父は次男のほほをなでたり、手を取って振ったりしながら、はらはらと涙を流すのでした。
「かわいいこの子が歩くところを見たい。『おじいちゃん』と呼ぶ声が聞きたい」

「でも、大きくなるところは見れないだろうな...」
義父の悲しみが私に伝わってきて、胸がいっぱいになりました。

その言葉どおり、ほどなく義父は他界しました。

 
次男は、今年26歳。義父の予言通り大きな体に成長しました。ここ1、2年で精神的にも大人になってきたけれど、小・中・高は本当に大変でした。好きなことしかしない、物事にがまんができない、対人関係がうまく築けない次男には、ずいぶん悩んできました。子育てがつらくなった時、いつも思い出すのは義父の病院でのシーンでした。

もういやだ、と思っても、「義父がかわいがってもらったこの子を、しっかり育てていかなくては」と思えるようになるのです。次男は、現在スニーカー専門店で働いています。「わしと同じ靴屋になったのか」と義父は喜んでくれるかなと、私は時折義父の笑顔を思い浮かべています。

健康法や医療制度、介護制度、金融制度等を参考にされる場合は、必ず事前に公的機関による最新の情報をご確認ください。
記事に使用している画像はイメージです。
 

この記事に関連する「みなさんの体験記」のキーワード

PAGE TOP