親は人生を「経験」してきただけ。子どもより賢いわけではない/岸見一郎「老後に備えない生き方」

『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「よい関係であるために」です。

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人はかわらないのか

山本有三(ゆうぞう。※1887~1974年。小説家、政治家。代表作に『路傍の石』など)に『波』という小説がある。登場人物の一人が、後から後から押し寄せては砕けていく波を前に次のようにいっている。私たち親がさんざん苦しんだのだから、もはやこんなことを子どもには経験してほしくないと思っていても、子どもたちは親が一生かけて経験したことを軽蔑して、打ち寄せる波のように、昔からほとんど変わることなく同じ誤りを繰り返してしまう。

「人間が生まれてから何万年何十万年生きているか知りませんが、この方面だけはちっとも進んでないような気がします。自然の歩みは緩慢だと言いますが、あんまり緩慢すぎやしないでしょうか。私のように考えるのはせっかちなのでしょうか」(『波』新潮文庫)

親も一生かけて「経験」しただけであって、そこから学んだわけではない。自分が若い時に経験したことと同じことを子どもたちがしているのを見て歯痒く思うものの、自分自身も経験から何も学んでいないので、子どもに助言できないのである。

何も学べていないことを知ることは恥ずかしいことではない。子どもよりも高々三十年ぐらい早く生まれたからといって賢くはなれない。

たとえ経験から何かを学んだとしても、それを子どもに伝えることは難しい。

親子関係がよくなければ、たとえ親がいうことが正論であっても、正論であればなおさら子どもは親のいうことを受け入れようとはしない。

また、関係がよくても、親が子どもよりも知恵があると思ってしまうと、親のいうことは説教にしか聞こえないことがある。

それでは、自分と同じ誤りを犯しているように見える子どもに手を拱(こまね)いて何もできないかというとそうではない。しかし、そのためには親子の関係がよくなければならない。どうすればいいのか。

 

子どもを尊敬する

まず、親が子どもを尊敬することである。

尊敬するというのは、ありのままを受け入れるということである。ありのままを受け入れるというのは、条件をつけないということでもある。

ドイツの社会心理学者であるフロム(※エーリヒ・フロム。1900~1980年。代表作は『自由からの逃走』『愛するということ』など)は、「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである」といっている(『愛するということ』紀伊國屋書店)。

この世界にたった一人しかいない、かけがえのない人として見るということである。さらに、フロムは次のようにいっている。「尊敬とは、他人がその人らしく成長発展していけるよう気づかうことである」(同)

親の理想を子どもに押しつけ、子どもをその方向に成長発展させるのではなく、「その人らしく」成長発展する援助をするのである。

親は子どもに自分の理想や期待を押しつける。親の期待を満たすような生き方をした子どもも、親の期待を満たせないと思って親にとって何らかの意味で問題と思える人生を生きてきた子どもも、共に自分の人生を生きていないのである。

親が子どもをこのような意味で尊敬するようになれば、子どもが変わるかどうかはわからない。変わるという保証はない。保証がないからこそ、無条件の尊敬なのである。しかし、ありのままの自分を認められたなら、自分が自分であることを受け入れ、子どもは自分の人生を生きる勇気を持つようになるだろう。そこから先は子どもが決めることである。

 

仮面を外す

以前、子どもは理想の親を見てはいけないと書いたことがあるが、以上のことは、親に対しても同じである。子どもも親をありのままに見なければならない。

相手をありのままに受け入れるためには、親の仮面、子どもの仮面を外し、「人」として接することから始めたい。「人」は英語ではパーソン(person)というが、このパーソンは「仮面」を意味するラテン語のペルソナ(persona)が語源である。人は皆、仮面を被って生きているという意味である。

この仮面を外せば、相手をありのままに見ることができるようになる。親子ではなく、人として関わるということである。親としてではなく、人として何ができるかを考え、関わるということである。

親として意見をいえば子どもの反発は必至である。さりとて、行きずりの他人ではないので無関心であっていいはずはない。友人が困っているときのことを考えれば、どうすればいいかわかるだろう。

自分の意見を押しつけたりはしないだろう。その前に、何か力になれることがあるかたずねるだろう。その上で、できることがあればそれをするだけである。

いつか、私の父が「お前のやっているカウンセリングを受けたい」といった。身内のカウンセリングは関係が近すぎるので通常はできないのだが、父の申し出を断ることはできず、父と時々会って話した。

その父とのカウンセリングの時、父と私は仮面を外し、人として話すことができた。それまで父との関係はよくなかったが、これがきっかけで父との関係は近くなった。

 

子どもを信頼しよう

次に、親子関係をよくするために必要なことは信頼である。

ここでいう信頼は、信用と区別したい。信用は条件付きである。信じられる根拠がある時にだけ信じることだが、親子関係にあっては、無条件に信じることが必要である。条件をつけないで信じる、あるいは、あえて信じる根拠がない時に信じるということである。

長く学校に行っていない子どもが「明日から学校に行く」といっても親は信じられない。しばらく行ってもすぐに行かなくなるかもしれないと思うからである。実際、どうなるかはわからないが、子どもが行くといえば、その言葉を信じるしかないのである。

何を信頼するかといえば、課題を自分で解決する力があると信じることである。親は子どもが自分の課題を自力で解決できるとは信じられない。実際、幼い頃は自分でするといったことを子どもに任せていたら、大変なことになったという経験をした人も多いだろう。

事実、失敗するかもしれないが、できないと思われていると知った子どもは課題をする気が起きない。
 
しかし、いつまでも親が何もかも手助けをしていたら子どもは自立しない。子どもが成人しても子どもを信頼できず、子どもの課題に手出し、口出しをする親は多い。
 
子どもがまず精神的に親から自立し、終(つい)には経済的にも自立することは、親が子どものことを思い煩わず、自分の人生を生きるために必要である。どんなに子どものことが心配でも、いつか子どもと別れなければならないのである。

 

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※この他の「老後に備えない生き方」はこちら。

 

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2018年10月号に掲載の情報です。
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