人生100年時代、仕事の引退は80代、と言われるようになっている現代において、私たちに求められているのは「どれほど個人の市場価値を上げられるか」ということ。ではどうすれば個人の市場価値は上げられるのでしょうか?その答えは「独学」にありました。
本書『「超」独学法 AI時代の新しい働き方へ』は、今日から始められる「独学」の勉強法を集めた最強の独学メソッド本。独学への不安を払しょくし、新たな可能性を見出す手がかりがここに!
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落とし穴(1):信頼性の欠如
検索には利用価値がある。しかし、限界もあることを知っておく必要がある。それに注意しないと、落とし穴にはまる危険がある。
第1は、信頼性だ。印刷物やマスメディアで提供される情報や知識は、何重ものスクリーニングを経ている。編集・校閲というスクリーニングを経たものだけが公に発信され、提供されている。もちろん、スクリーニングを経たからと言って、完全に信頼できるとはかぎらない。しかし、一定の水準が確保されているとは言えるだろう。
しかし、インターネットでは、きわめて多数の人々が、こうしたスクリーニングを経ずに情報を発信している。ウェブで提供されている情報は、こうしたチェックがなされていないものがほとんどである。
学校の教室にある壁新聞、あるいは町内会にある掲示板が、それまでの新聞と同じように一般的な到達範囲を持つメディアとして登場したことになる。しかも、インターネットでの多くの発言が匿名でなされるため、無責任な言動が流れやすくなる。無責任な発言、デマ、フェイクニュース、誹謗(ひぼう)等が、簡単に発信できてしまうのだ。
こうした事情があるので、インターネットの情報を簡単に信用してはならない。少なくとも、複数の情報源に当たってチェックする必要がある。ウェブの情報には、単に他のサイトの内容をコピーしたにすぎないものがある。したがって、複数のサイトをチェックしたからといって信頼できるわけではない。まったく異なる情報源に同じような情報がないかぎり信用しない、というほどの慎重な態度をとるほうがよいだろう。
ウィキペディアの記事は、さまざまな人によって書かれている。しかし、著者は匿名で、身元を明かしていない。このため、記事の内容の信憑性(しんぴょうせい)に疑問なしとしない場合がある。
誰が責任をとっているのかが、はっきりしないのだ。もっとも、閲覧者からの指摘によって修正されることもあるので、むしろ信頼できるとの意見もある。実際、記事によっては、「この内容は十分な参考文献が引用されていません」というようなコメントがされているものがある。しかし、そうした自己調整機能がどの程度働いているかは、分からない。
例えば、人名の説明項目の場合、印刷物の人名辞典であれば、この記載で間違いがないかどうかとの問い合わせが、本人宛てに来る。しかし、ウィキペディアの人名項目にはこのような手続きは一切とられていない。したがって、本人がまったくかかわらないところで紹介記事が書かれているわけだ。
これによって不快な思いをした人は多数いると思われる。深刻な誤りであれば訂正を要求することもできるが、軽微な誤りであれば、いちいちチェックするのも面倒で、放置してしまうことになる。その結果、誤った情報が独り歩きする結果になりかねない。
インターネットの世界は、このように信頼性が明確でない世界だ。そのために、権威にすがるという傾向も生じうる。「有名な報道機関や政府の関係者が言っていることなら信用できる」という無批判な態度が広がりかねない。こうしたことにも注意を払うべきだ。
落とし穴(2):体系性の欠如
「ウェブの情報に信頼性がない」ということは、かなり認識されていると思う。一方、必ずしも認識されていないのは、「体系性の欠如」だ。つまり、「ある事項が、全体の中でどの程度重要か?」ということだ。これは、検索で断片的に知識を得ているだけでは、直ちには分からない。したがって、本当に重要でないことに突っ込んでしまう危険がある。そして、単なる「雑学博士」になってしまう危険がある。
ウェブとは、さまざまな知識の集積場である。その中にきわめて重要な情報があることは事実だ。しかし、ガラクタにすぎないものも、非常にたくさんある。検索エンジンは、それらをランダムに示すわけではなく、ある基準にしたがって順位付けして示してくれる。しかし、その順位付けが、個々の人が求めているものと一致している保証はない。