織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!
「大化改新」(乙巳の変)も根底は嫉妬
考えてみれば、独裁者・天智天皇が中大兄(なかのおおえ)皇子と呼ばれていたおり、中臣(のちの藤原)鎌足と決行したとされる「大化改新」(乙巳の変)も、そのもとを手繰っていけば、ときの独裁者である蘇我氏への、種々の嫉妬がそもそもの原因であった。
蘇我氏は天皇への畏敬の念――権威と権力を巧妙に分ける配慮――を、入鹿の代に忘れてしまったようだ。
そのため、天皇家はもとより諸豪族の羨望と嫉妬を、一身に受けることとなる。
天皇をはるかに越える蘇我氏の権勢――この巨権に対する憎しみと怒り、嫉妬がまず、クーデターを起こした側に存在したことは、留意しなければならない。
蘇我氏は馬子―蝦夷(えみし)―入鹿と三代にわたり、国政のライバルを次々と蹴落して、その絶大な権力を継承。
舒明(じょめい)天皇(第三十四代)の崩御ののち、その皇后を皇位につけた。
推古天皇(第三十三代)に次ぐ、二人目の女帝・皇極(こうぎょく)天皇(第三十五代)の誕生である。
――皇極元年(六四二)はすなわち、「大化改新」の三年前にあたった。
このとき、舒明には古人皇子と中大兄皇子があり、加えて舒明と皇位を争った山背大兄王(やましろのおおえ)(聖徳太子こと、厩戸皇子の子)の、三人の皇位継承資格を持つ男子がいた。
が、ちょうど三者三竦(さんすく)みの状態となっており、とりあえず皇極の登場となったわけだ。
この演出をなしたのは、蝦夷―入鹿父子であったが、温厚な父に比べてその息子は、二十四年間の留学を終えて帰朝した学問僧・旻(みん)をして、周易(古代中国の周代におこなわれたとされる占いの法=広い意味での政治学)の門下生・中臣鎌足とともに、双璧にあげられるほどの秀才であった。
隔絶した家柄に加え、頭脳明晰の入鹿は、傲慢で強気、自尊心が強く、およそ他人に譲るという協調性のかけらも持ちあわせていない―まさに、嫉妬される人物の見本のような男であった。
この独裁者が皇極二年(六四三)、朝廷最高の「紫冠(しかん)」(古代におこなわれた冠および位冠のなかでも最高のもの)を授けられ―すなわち大臣(おおおみ)(のちの左大臣)に就任すると、すぐさま山背大兄王を圧倒的武力で攻め滅ぼす。
興味深いのは、このおり山背の側近の一人・三輪文屋君(みわのもんやのきみ)は、東国に脱出して兵を募れば勝てます、と進言していた点であった。
壬申の乱で、大海人皇子が採用した作戦と同じであったのだが、山背大兄王は勝つかもしれないが民衆に迷惑をかけたくない、とあえて自滅の道を選んだ。
心底、優しい人柄の皇位継承資格者であった。
古人皇子は入鹿に、次の皇位継承者に指名されて古人大兄王(ふるひとのおおえ)となる。
ちなみに、この「大兄」という称号こそが、当時、次の大王=天皇となる人物を表わすものであった。
入鹿は朝鮮半島の三国(句高麗・新羅・百済)に対する積極策、仏教興隆策などを次々と打ち出し、一方では壮大な鳥板飛蓋宮を(あすかのいたぶきのみや)建設。
地方政治の整備なども強引に推し進め、自らの地位を確固たるものにしていく。
当然、その強引なやり方は、華々しい業績を重ねる一方で、合議を重んじる当時の豪族たちには、多大な反感を抱かせた。
傍目には、臣下の分を逸脱する行為―入鹿は、天皇に取ってかわるつもりではないか―との疑念、憶測まで飛びかった。
なかでも入鹿の存在を疎ましく思っていたのが、中大兄皇子―正確には葛城(かつらぎ)皇子(大化改新後、中大兄となる)であった。
なにしろ葛城皇子は、古人以上に次期皇位継承者に選ばれる可能性が高かったのだから。
葛城は舒明天皇子の嫡子であり、何より皇極女帝を母とする、申し分ない血筋であった。
しかし、入鹿はあえて古人大兄皇子を指名した。
古人大兄皇子は葛城の異母兄、その母は蘇我氏の出であったからだ。
葛城皇子にとっては、面白いはずがない。
そういえばフロイトは、嫉妬について「競争心による正常な嫉妬」「投影された嫉妬」「妄想的な嫉妬」といった層のあることを指摘していた(井村恒郎訳『フロイト著作集』 第六巻)。
競争心による嫉妬は、人間なら誰もが持っているもの。物事の発展・発達には不可欠ともいえる。
「妄想的な嫉妬」と「大化改新」の動機
ところが「投影」となると、片方が持った願望をライバルに投影して、それを激しく攻めることにより、自分にはそうしたやましい欲望はないようなふりをするもの。
葛城が投影した嫉妬の対象は、この古人大兄であったろう。
次期皇位にふさわしくない、と己れの欲望は隠して、古人の至らなさを思い、内心で攻め、一方で自己弁護するわけだ。
もしかしたら三つ目の、具体的な根拠のない、「妄想的な嫉妬」であったかもしれない。
こちらならより病的であり、悪くすれば医者が必要となる領域となる。
なにしろ葛城皇子は、儒学を学ぶべく通った南淵請安(みなぶちのじょうあん)の門下生として、優秀であり、極めて自己主張の強い性格であった。
そのため周囲に人気がない、というマイナスを抱えてはいたが。
併せて、権力志向の強烈な入鹿と、葛城は酷似していたが、権力を持たない葛城皇子は、わずかにわが身を引いて、客観的に物事を考える冷静さを残していた。
無論、このままでは皇位どころか、世上に無視され、忘れさられた存在になりかねない、との思いは強くもっていたであろう。
自分は古人大兄王に比べて、決して劣る人間ではない。
古人大兄の皇位継承には納得できない。
もし、それを許せば、入鹿に皇位も奪われてしまう。
葛城皇子は自分の思いを、「合理化」して行く。
結果、「何としても、入鹿を除かなくてはならない」となる。
とはいえ、一人では何もできない。
そんな葛城に接近してきたのが、入鹿打倒に燃える正義漢の固まり、中臣鎌足であった。
彼は真に、朝廷の行く末を憂いでいた。
このままでは倭(やまと)そのものが、アジアの外交・軍事の中で埋没しかねない。
否、滅ぼされてしまうかもしれない、との強い危機感を抱いていた。
鎌足は当初、舒明天皇の甥で、皇極女帝の弟でもある軽(かる)皇子(のちの第三十六代・徳孝天皇)を、密かに打倒入鹿の旗頭に仰いだ。
軽は斑鳩宮(いかるがのみや)に山背大兄王を攻撃した入鹿の軍勢の中にいた人物でもあり、この時、五十歳。
当時の皇族中の長老であったが、鎌足はその年齢のわりには今一つの器量に、あきたらなさを感じ、やがて葛城皇子へと近づいていく。
歴史の名場面として後世に伝えられた、法興寺の鞠蹴の会―葛城の脱げた鞋(くつ)を鎌足が拾って捧げ、これを機会に二人は親密になった、との挿話(『日本書紀』)は、そのままには信じ難い。
が、鎌足も南淵請安の門下であったから、二人は蹴鞠ぐらいしたことがあったかもしれない。
葛城皇子と親しくなった鎌足は、この皇子に入鹿への憎しみ、抹殺への思い=殺意のあることを確認、具体的なクーデターの準備を着々と進めていく。
陰謀においては不抜の器楽が勇気を支えなければならない。これに対して戦場の危険に際して必要な度胸は、勇敢さだけで充分こと足りる。(ラ・ロシュフコー『箴言集』)
まず、実兵力がいる。
鎌足は蘇我氏に次ぐ勢力を誇った阿倍氏の阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)に接近して、これを味方に引き入れ、ついで蘇我氏を分断するためもあり、入鹿の従兄弟にあたる蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)を誘った。
共に二人は、入鹿に対して嫉妬、恐怖と怒りの感情を抱いていた。
そしてクーデターのトップに担いだのが、軽皇子であった。
彼は葛城皇子に比べ、朝廷内での人望が厚く、人柄も温厚で、なにより敵がいない。
こうして、入鹿暗殺陣営の準備は整った。
ターゲットの入鹿本人は、相変わらず慢心している。皆目、そうした不穏な企てが待ち構えていることを察知していない。
彼は何の疑いも持たずに、ワナである飛鳥板蓋宮に出向いた。
嫉妬心に殺された蘇我入鹿
皇極天皇の四年(六四五)六月十二日、そぼふる雨のなか、蘇我入鹿は韓進調(さんかんしんちょう)儀式に参加するため、飛鳥板蓋宮に出かけていく。
この三韓進調の「三韓」とは、高句麗・新羅・百済のことで、これら三国が調―天皇への献上品―を差し出す儀式が、三韓進調の儀式と呼ばれていた。
当時、権勢を欲しいままにしていた入鹿が、このような儀式に出席を要請されるのは、きわめて自然なことであった。
が、日頃、豪族たちの反感を買っていることを承知していた彼は、屋敷の周囲に柵を巡らせ、多くの兵士に警護をさせていた。
外出時にも数十名の屈強な護衛を連れており、また、入鹿自身も剣を持ち歩いている。
そのため、普通の状況ではこの人物を暗殺することは難しかった。
入鹿の周囲から兵士、武器を取り除く状況をつくり出すことが、クーデターを成功させるための、必須条件となる。
警護の兵士たちは、儀式場に入ることは許されない。
また、儀式に先立ってクーデター側は、入鹿自身の剣をも取り上げることに成功していた。
その方法について『日本書紀』は、朝廷内の優(わざひと)(朝廷内で滑稽なしぐさで歌舞をおこなう役目の者)が、鎌足の命を受けて入鹿に近づき、言葉巧みに剣を奪った、と伝えている。
「三韓の人々は臆病で、剣を怖がっております。お預けください」と言ったとか。
あるいは、下役人に追われる仕種で俳優が近寄り、「あの者たちに、悪さをされて困っております。どうか、剣をお貸しください」と言って入鹿の剣を受け取り、「―これは今をときめく大臣(おおおみ)の剣ぞ」と、下役人を追いまわしたなど、いくつかの挿話がある。
いずれにしても、護衛の者に加え、自身の剣をも失って入鹿は、すっかり丸腰にされてしまったわけだ。
さらにこのとき、朝廷内に通じる十二の門はすでに、堅く閉ざされていたのだが、袋のねずみの入鹿本人は知るよしもなかった。
いよいよ、儀式が始まる。
計画では、蘇我石川麻呂が文書を読み上げている間に、刺客二人が切り付けることになっていたのだが、入鹿の貫禄に怖じ気づいた刺客たちは、なかなか飛び出そうとしない。
そうこうするうち、読み上げる文書が終わり近くになってしまった。
不安に駆られた石川麻呂は、汗を流し手を震わせ、次第に文書を読む声も怪しくなってくる。
「なにゆえ、そのように震えわななくのか」
不審に思った入鹿が、かたわらから問うた。
同じような場面が、古代中国の秦王政(のち始皇帝)を暗殺しようとした、燕の刺客・荊軻(けいか)にもあった。
「風は蕭々(しょうしょう)として易水(えきすい、現・中国河北省を流れる川)寒し 壮士一たび去って復た還らず」と歌い、颯爽と暗殺に出向きながら、秦王はあわよくば生かしたまま捕らえて、燕に押し付けた大国秦の、無茶な約束を反故にしよう、などと欲=雑念を持ったため、荊軻は暗殺に集中できず、逆に秦王に斬られてしまった。
石川麻呂の心中は、いかに―彼は苦しい弁解を返す。
「天皇(おほきみ)のそば近くにおりますので、つい緊張して汗を流して震えてしまいました」
まさに、その時であった。
なかなか飛び出さない刺客に業を煮やした葛城皇子が、みずから刀を抜いて入鹿に切りかかったのである。
このあたりが、この皇子の持ち味であったかもしれない。
不意を突かれ、また剣を持たない入鹿はなす術もなく、深手を負ってしまった。
しかし、事ここに至っても、彼にはまだ事態の深刻さがのみ込めていなかったようだ。
てっきり、天皇が自分を陥れようとしたのだ、と思い込んだ。
入鹿は儀式に参列していた皇極天皇のもとに這い寄って、問い質す。
「なにゆえ、この私をお討ちになるのですか。理由をお聞かせ願いたい!」
苦しい息の下から、声をふりしぼった。
無論、目前で繰りひろげられる惨劇を、皇極天皇は事前に何一つ知らされていない。
斬られた入鹿に問われて、わが子・葛城皇子に叫んだ。
「いったい、これはなんとしたことか。何ゆえに、このようなことをしたのですか」
これに対して葛城皇子は、明快に答えた。
「入鹿は天皇一族を滅ぼし、国を傾けようとしていたのです」
これを聞いて皇極天皇は、それ以上、何もいわずに奥の間へと去っていった。
入鹿に逃げ場はなく、殺害された彼の遺骸は、おりからの雨にぬかるんだ大殿(おおとの、邸宅)前の中庭に、これみよがしに打ち捨てられたという。
上からは、筵(むしろ)一枚がかけられただけであったとか。
独裁者の最期は、その権力の大きさゆえにか、あまりにも痛々しい。
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