信長が明智光秀に嫉妬!?「本能寺の変」原因は友達付き合いの失敗

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康――この3人の共通点、何か分かりますか? 天下人・・・ではなく「嫉妬で人生が激変した人」です。歴史上の有名人たちも、やっぱり人間。そんな嫉妬にまつわる事件をまとめた『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社)から、他人を妬む気持ちから起こった「知られざる事件簿」をお届けします。今年の大河ドラマの主人公「明智光秀」を取り巻く背景もわかります!

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羨望と嫉妬の"本能寺の変"

天正十年(一五八二)六月二日の早暁、京都西洞院小川の本能寺にあった主君・織田信長を、重臣・明智光秀が急襲。信長は自刃して、四十九歳の生涯を閉じた。

世にいう、本能寺の変である。

この歴史的事件は、信長の覇業〝天下布武〟を一挙に挫折させてしまったことで、きわめて深刻なものであった。が、そのわりには、叛臣光秀の叛逆の動機や原因については、これまでも様々なことが取りざたされてきたにもかかわらず、決定的なものはいまだ、明らかにはされていない。

なにしろ本能寺の変とその後の光秀の死が、あまりに突発的で、併せても十一日間の出来事であったために、同時代に遭遇した人々でさえも、事件の真相を的確には把握することができなかった。このことが何よりも、この事件の真実を明らかにすることを阻んできた、といえよう。

だが、歴史学の立場にたって、一分野である歴史心理学(Historical Psychology)や精神分析の成果の援けを借りつつ、この難事件の解明に臨めば、存外、原因がありきたり(ありふれて、めずらしくない)であったことが知れる。

筆者は〝本能寺の変〟の原因は、信長と光秀この二人の人間関係、とりわけ羨望と嫉妬にあった、と考えてきた。

この事件を検証するとき、歴史学では揺せにできない重大な視点が一つあった。

――すなわち、人間の不変性である。

戦国時代の真中あたりで起きた事柄は、その本質においては現代でも通用する、起こり得るものだ、との考え方だが、歴史学にいう不変性はその根本において、人間の感性は時代に関係なく、常に変わらない一貫性をもっている、との思考によって成り立っていた。

もしかしたらもう一つ別の、日本の未来が開けていたかもしれない大きな可能性を、阻んでしまった本能寺の変――この大事件も、その根本はいつの時代にも存在した人間関係、上司と部下=信長と光秀の感情のもつれ、なかでもやっかいな羨望と嫉妬に端を発した憎悪から起きものではなかったか――

単純にいえば、羨望はうらやましがること、嫉妬はねたみそねむことである。

のないようにいえば、信長も光秀も一流、すなわち〝ほんもの〟であった。

ラ・ロシュフコーの『箴言集』の言葉を借りれば、次のようになる。

ほんものである、ということは、それがいかなる人や物の中のほんものでも、他のほんものとの比較によって影が薄くなることはない。

二つの主体がたとえどれほど違うものでも、一方における真正さ(真実で正しいこと)は他方の真正を少しも消しはしない。

両者のあいだには、汎広(こうはん)(範囲が広い)であるかないか、華々しいかそうでないかの相違はありえるとしても、ほんものだということにおいて両者は常に等しく、そもそも真正さが最大のものにおいては最小のものにおける以上に真正だということはないのである。

本来、信長と光秀は両者並び立ち、比較によって一方が他方に比べて、見劣りするというものではなかった。

信長は戦国の革命児であり、彼に見出された光秀は、美濃(現・岐阜県南部)の名門・土岐氏の支族・明智国光(みつくに)の子であった、との伝承はあるものの、その出自はかなり怪しい。

筆者は室町幕府に出仕していた人物、と考えてきたが、出身はともかく、光秀は武家貴族の共通語を操り、室町式の礼儀作法をも心得ていたことは間違いない。

突飛なことをいうようだが、実は、この人物が信長に認められたそもそもは、その専門性ゆえの可能性が高かった。厳密にいえば、〝言語〟である。

光秀が歴史の表舞台に登場するのは、永禄十一年(一五六八)九月に入ってから―。

この頃、光秀は越前(現・福井県北部)の国主・朝倉義景に客将として仕えていたが、義景を頼ってきた将軍候補の足利秋義(よしあき)(のちの十五代将軍昭義(よしあき))が、改めて織田信長を頼ることとなり、その交渉の過程、機縁で、自らも信長に仕えることとなった。

並び立つことの不幸と友情について

当初、光秀は室町武家言葉と信長の尾張弁を聞き分け、双方の意志の疎通をはかったはずである。

美濃は尾張(現・愛知県西部)の隣国、彼は信長の言葉が理解できたにちがいない。

つづいて、京都の行政官をつとめさせられ、光秀は予想以上の成績をあげている。

ならば戦はどうか―、と信長が合戦の指揮を執らせても、光秀は抜群の腕前を発揮した。

信長からの評価は、高まる一方である。それを受けた光秀の意識の中に、己れを武家貴族に
擬するものが芽生え、育ったことは想像に難くない。

外交と行政、合戦共に秀でた立場から、主君信長の言動を改めてみた時、光秀にはこの人物
がどのように映ったであろうか。

自由奔放な信長の気性とはそもそも対照的な、生真面目な光秀はいつしか、主君に対する批判を心のうちにもち、それを心ならずも鬱積させて、ついには謀叛に踏みきってしまった、と筆者には思われてならない。

なぜ、このような大事に至ってしまったのか。

十四世紀の歴史哲学者イブン・ハルドゥーンは、「戦争をもたらす復讐心は、一般に羨望と嫉妬から起きる」と『歴史序説』で述べていた。

信長―光秀主従に関していえば、光秀は自分も参加してきたはずの〝天下布武〟事業を、信
長が独り占めしようとしているさま、その至福の様子が妬ましく、羨ましい、と羨望の念を抱いたのではないか。

それに対して信長の嫉妬は、〝天下布武〟を己れの力量ゆえの所有だと考えてきたにもかかわらず、同等の器を光秀も持っている、とふと気づき、その有様をみていて確信に変わった。

その観察が、家臣のお前ごときが、とその分不相応の力量に怒りが生じ、その才覚や性格を思い浮かべ、内心、光秀の実力を認めているだけに、嫉妬も生まれ、ますます激しい憎悪の情念を抱くことになったように思われる。

さらにやっかいなのは、嫉妬を向けられた光秀にも、この負の感情は反射し、信長の心底を
知ったような気になった光秀は、追いつめられ、疲労したあげく、ならば〝天下布武〟の邪魔をしてやろう。

いや、一層のこと自分が奪ってやろう、と考えた形跡は色濃い。

一般的に、羨望よりも嫉妬の方が、感情としては激しい。

なぜならば、信長の〝天下布武〟をうらやましい、と思った武将は、それこそ天下にあふれ
ていた。

が、そのすべてが信長を殺そうとは考えない。これが本来の羨望である。

それに比べて嫉妬は、より人間関係が近く、密接である場合に起こる特性があった。

―光秀は、信長が最も信任してきた側近中の側近である。

信長―光秀主従には史料上、友情に近い感情すらうかがえたのだが......。

そういえば先のラ・ロシュフコーは、「私の意図は、交際について語りつつ友情を語ることではない。

この二つはいくらか関係があるとはいえ、やはりたいそう違うものである。

友情には交際よりも崇高で尊いところがあり、交際の最大の取り柄は友情に似ていることである」といっている。

なるほど、織田家に参加した光秀は、主君である信長に年下の〝友垣(ともがき)〟に対する情け、慈しみの感情を持っていた。

でなければ、一番遅れて来て、最大の出世=城持ち第一号にはなれまい。

だが、この友情は主従関係の中で、自らを認めてくれた信長であるからこそ、抱いた感情で
あることを忘れてはなるまい。

距離をとってこその交際

ラ・ロシュフコーは交際について、次のように述べている。

「相手より自分を大事にしたい気持は、あまりにもわれわれにとって自然で、これを棄て去ることは不可能だから、せめて隠す術ぐらいは心得るべきであろう。自分が楽しむとともに他人を楽しませ、他人の自己愛(アムール・プロプル)に配慮して、決してそれを傷つけないようにしなければなるまい」

人間は誰しも、自分が何よりも可愛いもの。

自己愛―このキーワードを、仕える立場の光秀は、主君信長に対して友情の深まる中、いつしか配慮することを忘れてしまったのではないか。

少なくとも信長は、己れの自己愛を傷つけられた、と認識していたのだから。

「才気と才気のあいだに成り立つ関係は、もしその付き合いが良識や気質や、一緒に生きようと望む人のあいだに当然あるべき心づかいなどによって、調整され支えられなければ、長く保たれないであろう。たとえ時として、正反対の気質と才気の人が親密に見えることがあっても、それは自然でない結びつきによるに違いないから、長続きはしない。また、付き合う相手より自分の方が生まれや身にそなわった資質の点で優位に立つこともある。しかしこのような利点を持つ者は、それを悪用してはならない。そのことはめったに匂わせず、相手を向上させるためだけに使うべきである。導いてもらう必要があることを相手に気づかせ、できる限りその人の考えや利益に副うようにしながら、理によって導かねばならない。」(ラ・ロシュフコー『箴言集』)

光秀はつい、この交際におけるルールをおこたってしまった。

「友達の欠点が生まれつきのもので、またそれが彼らの長所よりも小さな欠点である時は、寛大に見逃さねばならない。欠点に気がついて不愉快になったと、相手にわからせることはなるべく避け、努めて彼らが自分で気がつくことができるようにして、自分で自分を直させて花を持たせるべきである。〈中略〉紳士が共にする交わりはお互いをうちとけさせ、率直に語り合う無数の話題を提供するが、にもかかわらず、その交際を長続きさせるのに必要な多くの注意を、快く受けいれるだけの従順さと良識のある人はほとんど一人としてない。人はある程度までは注意してもらいたがるが、何から何まで教えられることは望まないし、またあらゆる種類の真実を知りつくすのは怖いのである。物を見るためには距離を置かねばならないのと同じに、交際においても距離を保つ必要がある。どんな人にも、自分をこう見て欲しいと思う角度がある。あまり近くから光を当てて欲しくないと思うのは、おおむねもっともなことだし、あらゆることにおいてありのままの自分を見て欲しいと思う人は、ほとんど一人もいないのである。」(ラ・ロシュフコー『箴言集』)

信長にも、「自分をこう見て欲しいと思う角度」があったはずだ。なぜ、光秀はそれを理解できなかったのだろうか。

光秀は〝天下布武〟に邁進する信長に魅了され、同志愛、友愛を強く持ったがために、いつ

しか距離のはかり方がわからなくなったのではないか。

あまりにも近くから、信長に光を当ててしまったように思われてならない。

仰ぎみる羨望に比べて、嫉妬は自らが所有していると思い込んでいる地位や財産、広くは幸
福を守ろうとして起こる防衛本能であるから、信長はその狭まった光秀との距離によって感情を害し、危機感を抱くようになった、ともいえる。

もっとも、信長は光秀の才能に多少の嫉妬を感じたとしても、自らの築きあげてきたことご
とくを、この部下に奪われる、などとは一度も考えてはいまい。

が、一方の光秀は、信長の一声で地位も領地も、すべてを失う懸念、恐怖が常にあった。

そのため嫉妬の感情が反射すると、心が休まらず、精神的に追いつめられ、ついには疾患を煩った可能性が高かった。

なぜ、信長ほどの人物が、部下との交際に気を配らなかったのであろうか。

光秀も〝ほんもの〟であり、優れているとの確信があったにもかかわらず―。

2020年大河の背景も見えてくる「日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく」記事リストはこちら!

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日本人の嫉妬深さがよく分かる・・・現代社会にも通じる人間関係など、「嫉妬」を5つのテーマに分類して紹介されています

 

加来耕三(かく・こうぞう)
1958年、大阪府生まれ。奈良大学文学部史学科を卒業後、同大学研究員を経て歴史家・作家として活動。大学や企業で講師を務める傍ら、独自の視点で日本史を考察、研究。著書に、『「図説」生きる力は日本史に学べ』(青春出版社)、『刀の日本史』(講談社)など多数。

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『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』

(加来耕三/方丈社)
「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」など歴史的な事件の数々を、その当事者たちの行動や発言から著者独自の史観で考察された一冊。事件をのぞいて見れば、「他者への嫉妬」が渦巻いていたという驚愕の事実が…。嫉妬深い日本人の民族性や、だからこそ作り上げられた文化、さらには歴史的人物たちが抱いた当時の思いにも触れられます。

※この記事は『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(加来耕三/方丈社) からの抜粋です。

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