新元号「令和」は、それまでの元号のように中国の古典からではなく、日本最古の歌集、万葉集からの出典であることが大きな話題となりました。
初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして
気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ
梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き
蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かおら)す。
(梅花の宴、三十二首に先立ち記された大伴旅人の序文の一部)
新元号の考案者と目され、いま大注目を集めているのが、国文学者で万葉集研究の第一人者、中西進さん。90歳の現在も研究に力を注ぎ、講演に飛び回る中西さんに、そのパワーの源について伺いました。
3歳で俳句を詠んだことが、人生の原点
パワーの源と言われても、僕はずっと好きなことをやってきただけ。
ただ、国文学を好きになる環境はあったとは思いますね。
鉄道省に勤めていた父が俳句好きで、よく家庭俳句会をやっていたんですが、僕が3歳で初めて詠んだ句が、
ウメノキニ スズメマイニチ キテトマル
いつだったかこの話を俳人の故・金子兜太さんにしたら、「俳味があるね」と言われました。
和歌なら梅に鶯でしょ。
でも、雀にしたところがいいと。
「高く心を悟りて俗に帰るべし」という芭蕉の言葉がありますが、たった3歳の僕は俗に帰って、花を雀として反逆をしたわけね(笑)。
その空気の中にいると自然と言葉が体に染みてくる。
胎教と同じで、折に触れて俳句をやっていたら、小学6年生の時、大人の句会で最高点を取ってしまった。
いまでも僕はシャイでしょ(笑)、だから、披講(詩歌の会で詩歌を読み上げること)の時、なかなか自分だと名乗れなかったことを覚えています。
道は幾つもあると思えば、ストレスなんてなくなる
――万葉集にも、早くから興味を持っていらしたのですか?
万葉集は中学3年の授業で習いましたが、特に感動した記憶はないんです。
別の意味で素晴らしい経験をしたのが、万葉集の最初の授業でした。
先生が授業の終わりに「質問はないか」だれも手を挙げないから「お前たちやる気はあるのか!」と怒った。
いちばん前の席に座っていた僕は自分が怒られている気になり、手を挙げた。
立ち上がりながら質問を考えたけれど、とうとう思い浮かばず、「万葉集には山部赤人(やまべのあかひと)や高市黒人(たけちのくろひと)など、色の名前がありますが、どういう人でしょう」と、歌には関係ない質問をした。
すると先生が、すぐさま「それは俺も知らない」と言った。
生徒に馬鹿にされると思わず「知らない」と言えたのは、自信があるから。
これは尊敬しましたね。
以後、「知らないは、分かるへの第一歩」が僕のモットーになりました。
万葉集を研究しようと決めたのは大学時代ですが、日々新しいことを発見するのが楽しくて、今日まで続けてきた。赤人は、万葉の時代の日本人の最高の倫理コード、「清く明るく直き心」を持った人のこと。
黒人は夜の神事に仕える人のこと。
これは、のちに調べて立てた僕の考えですが、こういうことが一つひとつ分かっていくと面白いでしょう。
ーー70年以上研究を続けてこられてスランプに陥ったことは?
面白くて続けてきたので、スランプもストレスもまったくなし(笑)。
僕が嫌いなことは強制されること。
戦中は自由のない少年時代を過ごしましたからね。
軍の学校に入る受験写真は、パンツ1枚。戦後でも大学に合格したら、体の全てを調べられた。
いまでは考えられないひどい話です。
戦後間もなく、大学受験の前に虫垂炎にかかり、麻酔もしないまま3カ所もおなかを切られ、1週間後に再手術をして生死の境を彷徨ったこともあります。
元軍医だというその先生は荒っぽくてね。
自分が失敗したことを分かっていたんじゃないかな。
僕が親に意地を張って、「先生。この入院費は、僕がアルバイトして払っていいでしょうか」と言ったら、破顔一笑、「いいでしょう!」と言いましたよ。
病臥してつらい思いをした、目的の上級学校に入れなかった。
起こってしまったことは、考えても仕方がない。
自分の描いていた道が閉ざされたとしても、ほかに幾つも道がある。
そう考えれば、スランプも、ストレスもなくなると思いますね。
ーー1964年に読売文学賞、70年に日本学士院賞を受賞された『万葉集の比較文学的研究』は、日本初の比較文学研究の本です。初めての道を切り開くときのご苦労は?
当時、日本にはまだ比較文学という考え方が一般的ではなかったので、本は賛否両論。
「2つのいすに腰掛けようとすると、間に落ちる」という英語のことわざがあるんですが、「中西は、いすの間に落ちるぞ」と言われたりね。
一方、いいこともあった。
それが、34歳で頂載した読売文学賞。
最年少受賞かなと思って調べたら、三島由紀夫さんが32歳の時に小説部門で受賞をしていた。
でも、研究部門では、いまのところ、まだ僕が最年少受賞です(笑)。