映画『お終活』の第二弾、『お終活 再春!人生ラプソディ』が5月に公開されます。高畑淳子さんが主演を務めるこの映画は、主人公が若い時に諦めた夢への再挑戦を描く作品。今回高畑さんは苦手意識があった歌にも挑戦。今までの役者としての挫折と成長、さらに健康管理についても語っていただきました。
この記事は月刊誌『毎日が発見』2024年4月号に掲載の情報です。
たとえダメでも、夢に向かう自分に出会えるほうが幸せ。謙虚になるし、努力もできる。
――「お終活」シリーズ第2弾、高畑さんの主演映画『お終活 再春!人生ラプソディ』が5月に公開されます。
私の演じる千賀子さんが、若いときにあきらめた歌手の夢に再挑戦する物語がすてきだと思いました。
ただ、台本を読んでみたら、実際に歌う場面があったので「大変なことになった!」と。
あるミュージカルに出演したとき、うまく歌えなかったことがあり、歌には苦手意識があったんです。
だから、慌ててカラオケを用意していただき、10年ほどお世話になっているボイストレーニングの先生に、お稽古をお願いしました。
おかげで本番で歌ったら、思った以上に気持ちよくて。
生バンドの演奏で歌うなんて、滅多にないことですし「これは病みつきになる」と千賀子さんの気持ちがよく分かりました。
――高畑さんは、夢をあきらめたことは?
私自身の若い頃を振り返ってみると、高校卒業後に上京し、桐朋学園短期大学部演劇学科でお芝居の勉強を始めたものの、未経験だったこともあり、毎日怒られてばかりの劣等生でした。
卒業するときも、いろんな劇団にことごとく落ちて。
大学受験まですべて合格してきたのに...と落ち込むなか、辛うじて拾っていただいたのが現在も所属する青年座でした。
でも、劇団に入った後も、なかなか結果が出ませんでした。
いろんな役に挑戦したものの、劇評では容姿や声の大きさまで批判され、散々。
母からは「30歳までにあかんかったら、帰ってこないかんで。あんたが供給体制でも、需要がないんやから」と言われ、お見合いの口も探していたようです。
その一つはお煎餅屋さんだったようですが、私がお店に立ったら、きっと繁盛したんじゃないでしょうか(笑)。
約束の30歳を迎えたとき、「これでダメなら国に帰る」と覚悟を決めて臨んだのが、「セイム・タイム、ネクスト・イヤー」という舞台。
それぞれ家庭を持つ男女が毎年一日だけ会い、長年にわたって浮気を繰り返す姿から人生の悲喜こもごもが浮かび上がる大人のコメディです。
私が演じたのは世間知らずのまま若くして母親になり、やがて大学に通い、社長になる女性。
そのとき初めてお芝居が評価されたんです。
劇評に「同一人物とは思えない」と書かれましたが、それまで自分の持ち味を生かせる役と出会っていなかったんでしょうね。
役者は役との出会いによって変わるものだなと、改めて思いました。
ただ、そのお芝居でも開幕前日、相手役の加藤健一さんから「高畑さんの芝居はどこも悪くないけど、つまんないんだよね」と言われ、頭からバケツの水をかけられたような気分でしたよ。
でも、よく聞いてみたら、「お芝居はお祭りですから、大いに遊んでください。お客さんは高畑さんが遊んでいる姿を見に来るんですから。人間はずるかったり、もろかったりするところがいっぱいある。上手にやろうと思わず、そこを惜しみなく、怖がらずに出し、生きてください」とおっしゃったんです。
私はそれまで、母と約束したタイムリミットもあったため、「うまくやらなければ」と、演出家の話を一言一句漏らさず書き留め、「右に行け」と言われたら、「右に行ったまま、死んでも動かない」というお芝居をしていたんです。
でも加藤さんは「演出家の言う通りになんか、やりたくないでしょ。自由に生きてください」って。
そこではたと気付きました。
「そうだ。それがやりたくて私はこの世界に飛び込んだのに!」と。
元々私は、親がすすめるまま学校の先生を目指し、学校でも言われたことに素直に従う子どもだったんです。
でも同時に、「このまま先生になって大丈夫かな?」という一抹の不安もあり、自分でものを考えたいという思いから、以前から気になっていたお芝居の世界に飛び込みました。
加藤さんのお話で、そのことを思い出し、それからは自分の思うように生きていこうと、考えが変わりました。
――それが転機になったと。
運のいいことに、ちょうどその頃、日本はバブル経済に向かう時期で、東京に劇場が林立し、いろいろな舞台に立つことができました。
森光子さんや浅丘ルリ子さん、草笛光子さんといった心から尊敬する先輩方のお話を伺うことができたのは、私の人生の財産です。
市原悦子さんにお会いしたときは、図々しいと思いながらも、「いいお芝居をするために大事にしていることを、一言教えていただけませんか」とお願いしました。
そうしたら市原さんが、「たかが芝居、されど芝居」と教えてくださって。
その言葉は、いまも私の宝物です。