波瀾万丈な80代父の人生。家族も巻き込まれてずっと貧乏生活だったけど.../80代で見つけた 生きる幸せ

何歳になっても持ち続けたい「生きがい」はありますか? 年金3万円、数々の病に見舞われて、一日のほとんどをベッドで過ごしていた84歳のG3(じーさん)は、ミシンと出会って生活が激変! SNSで手作りのがま口バッグが話題になり注文が殺到するまでになりました。妻のB3(ばーさん)や、娘、孫たちと明るく前向きに生きるG3の日々を綴ったエッセイ『あちこちガタが来てるけど 心は元気! 80代で見つけた 生きる幸せ』(KADOKAWA)より、人生後半の生き方のヒントをお届けします。

※本記事はG3sewing著の書籍『あちこちガタが来てるけど 心は元気! 80代で見つけた 生きる幸せ』から一部抜粋・編集しました。

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54年前のG3とB3。引っ越しは何度もしましたが、G3が必ず一緒に移動したものは結婚式の写真。
夫婦の危機を乗り越えて、今は初心に戻ったような2人です。

G3は1937年(昭和12年)生まれの現在84歳。

7人きょうだいの長男として、三重県に生まれました。

G3の父(=祖父)は、独学でNHK名古屋中央放送局(当時)に入社し、技術部長になりましたが、太平洋戦争で召集。

その後、家の近くに爆弾が落ちて家がなくなり、三重県に疎開しました。

戦後、同じ県内で祖父がラジオ店を開きました。

東京・秋葉原でアメリカの中古部品を仕入れてテレビを作り、「世紀の大発明だ」と新聞社に取材をされたこともあったよう。

でも、祖父はお金が入ると、人におごったり、お酒を飲んだりして使ってしまい、生活は苦しいものだったそうです。

G3は高校の電気科に入学。

学校嫌いで遅刻早引きを繰り返してやっと卒業できた不真面目な生徒でした。

でも、電気製図が得意だったので、近鉄から入社依頼があったそう。

それなのに、祖父に反対されて断念。

長男として、実家のラジオ店の跡を継ぐことにしたのです。

その大きな理由は、「俺がいないと、親父がお袋を殴っていた。俺がいると止められたから」とG3が話してくれたことがありました。

84歳の今でも「近鉄に入社して、製図を描きたかったなあ」と言うので、本当にやりたかったことを諦めたという、後悔は消えていないようです。

祖父母、両親、きょうだい7人の暮らしは大変でしたが、ラジオ店は繁盛していました。

でも、今度は1959年(昭和34年)に伊勢湾台風で店が全壊。

それから苦労して、また新しい店を開きました。

その後、知人の紹介で母(=B3)とお見合いをし、1968年(昭和43年)に結婚。

私たち、4人の子どもが生まれました。

G3は、1979年(昭和54年)にラジオ店を廃業し、電化製品の修理専門の会社を始めました。

大手スーパーから、家電の修理、配達、取りつけなどを一手に引き受け、仕事は順調。

でも、ある日、大手スーパーによる理不尽な方向転換に納得できずに、けんか別れ。

翌日から、無職になりました。

無職の間に、図書館で本を読んでいたら、「これだ!」というものを見つけ、独学で習得。

オゾン発生器を作り、全国的に有名になりました。

でも、大手の会社に仕事を奪われたり、バブル経済が崩壊するなどして、事業の継続が難しくなりました。

その後は、スナックなどの飲食店もしていましたが、借金がたまって閉店。

弟がこのときの借金を負担してくれました。

職人としての腕もあり、アイデアマンでもあるG3ですが、短気で人づき合いが苦手ですぐにぶつかります。

「そこでけんかしないで、うまくやればいいのに」ということが多く、仕事が長続きしません。

災害や社会状況の変化の影響もあり、我が家にはいつもお金がありませんでした。

小学生のときのこと。

学校から家に帰ると、水が出ません。

姉から「水道代を払っていないから、止められたみたい」と聞かされました。

夕方、帰ってきたG3にその話をすると、水道局に電話。

「貧乏人でも生きる権利がある!」と言ったら、水が出たんです。

今考えたらとんでもないことですが、そのときは「お金はないけど、生きる力はあるな」と思いました。

水道局さん、本当にすみません。

B3も働いて、私たちを育ててくれました。

G3とずっと一緒にいるからか、明るく大らかな人なのです。

やはり、小学生のときに留守番をしていると、借金取りが家に押しかけてくることがありました。

両親はいないので、玄関で対応するのは私たち。

それが、すごく嫌で、B3に訴えたら、「ないものはないんやで。命までは持っていかんやろ。大丈夫!」と言われました。

そのときは、「これが普通の暮らし」だと思っていました。

貧乏でしたが、楽しいこともありました。

小学校の頃は、海で潮干狩りをして味噌汁の具を調達したり、川で魚釣りをしてバーベキューをしたり、家族は仲良しだったから、つらくはなかったのです。

でも、思春期を迎える中学校時代は、貧乏なことが恥ずかしかった。

他の子がしている習い事にも通えず、「こんな生活は嫌だ。普通のサラリーマン家庭に生まれたかった」と、思っていました。

子どもの頃からずっと、親に何かをねだったことはありません。

大人になってからは、G3が飲食店を始めるときの資金、B3の運転免許取得の費用など、こちらからお金を出してあげたことは多々あります。

でも、いつも"焼け石に水"でした。

そのとき、使って終わりで、その後に生かされたことはありません。

だから、モヤモヤした気持ちだけが、ずっと残っていました。

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45年前の家族。まだそれほど貧乏じゃなかった! 両親と4人の子どもたち。
G3の仕事がうまくいっていた時期でした。
この後、貧乏暮らしになるとは。小学校、中学校のときが一番大変でした。

 

G3sewing

84歳の元電気工事士の父(G3=じーさん)、80歳の母(B3=ばーさん)の幸喜(=後期)高齢者と50歳の娘の3人組のソーイングチーム。ミシン修理を頼まれたことをきっかけに、G3は82歳でミシンを始める。Twitterにがま口バッグの写真をアップしたら、思いがけずバズって注文が殺到。

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あちこちガタが来てるけど 心は元気! 80代で見つけた 生きる幸せ

(G3sewing/KADOKAWA)

「お金がなくても、生きがいがあるから、日々幸せ」。G3sewing (じーさんソーイング)という名前で、がま口バッグをミシンで縫い、Twitterやブログでネット販売している84歳、後期高齢者の男性の、老後の日々を明るく前向きに、有意義に生きるための生き方のコツを綴るエッセイ。

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※この記事は『あちこちガタが来てるけど 心は元気! 80代で見つけた 生きる幸せ』(G3sewing/KADOKAWA)からの抜粋です。
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