「50代は十分若いわ。やりたいと思ったらやりなさい」。ターシャ・テューダーにそう言われ、アメリカのバーモント州を舞台に「夢」を追い続ける写真家、リチャード・W・ブラウン。ターシャの生き方に憧れ、彼女の暮らしを約10年間撮影し続けた彼の感性と、現在75歳になる彼の生き方は、きっと私たちの人生にも一石を投じてくれるはずです。彼の著書『ターシャ・テューダーが愛した写真家 バーモントの片隅に暮らす』(KADOKAWA)より、彼の独特な生活の様子を、美しい写真とともに12日間連続でご紹介します。
ターシャが生けたスイセン。背景の額の少女は、祖母の子ども時代。
ターシャの庭は、いつ行っても美しかった。
しかも、春から、春の終わり、夏、秋と、季節によって表情が変わる。
行くたびに新しい発見があった。
いわゆるコテージガーデンであるが、そのスタイルは、ほかのだれの庭とも違うターシャ独自の庭だった。
あるとき、プロのガーデンデザイナーふたりが手を差し伸べてきたことがある──というか、自分たちの考えをターシャに押し付けたと言った方がよいかもしれない。
ターシャは、彼らにやらせはしたものの、自分の流儀と違うやり方に居心地の悪さを感じていたに違いない。
2、3年後、事件が起こった。
ターシャがデザイナーのひとりに、大事にしているリンゴの木の剪定を頼んだところ、そのデザイナーがよこした庭師が、何を誤解したのか、その木を切り倒してしまったのである。
ターシャは顔色を変え、それを理由に、彼らを出入り禁止にした。
さすがに我慢の限界だったのだろう。
自分の考えをしっかり持っていながら、そこまでやらせたターシャの忍耐力に感心する。
ぼくは、ターシャの価値観、ライフスタイルに100パーセント賛同するが、ターシャが憧れた1830年代の暮らしをぼくもできるかといえば、到底無理だ。
その時代にバーモントに移住して来た人々は、畑をつくるために森の木を大量に伐採しなければならなかったが、伐採した木を焼却してできるカリウムは、皮をなめすのに必要だったので、高値で売れたため、まずはそれを収入源にした。
彼らはとりあえず丸太小屋を建てて暮らし始め、そのうち家を建て直し、畑を広げていった。
だが、 現代のようにスーパーに行けば食料が買えるわけではない。
自分たちが食べるものは自分たちで作るしかなかった。
ウシやヒツジを飼ったとしても、家族で世話ができる頭数には限りがあったし、畑で作れる飼料の量を考えてもひと握りの家畜しか持てなかっただろう。
バーモントの冬は厳しい。
どの農家も、夏の間に作った作物を蓄え、あるもので冬を越さなければならなかった。
ターシャは20世紀に暮らしながら、その生活を実践していたのである。
ぼくも一時、100年前に生まれていたら、と思ったことがあるが、当時の生活を考えたら、とても生きていけなかっただろう。
まず、写真家などという職業はなかったし、今、ぼくは撮影したいものを見るのに眼鏡が要るのでコンタクトレンズを使っているが、そんなものもなかった。
これまでにかかった病気、背骨の骨折、数年前に見つかった脳腫瘍などを考えると、とっくに命を落としていただろう。
電気のない暮らしも無理だ。
停電になっていちばんに文句を言うのは、ぼくだから。
だがターシャは違った。
この時代の生活がどんなに大変だったか、それを承知で実践していたのである。
もちろん、ろうそくで暮らしながらも電気は使っていた。
料理はほとんど薪ストーブでしたものの、電気コンロも使っていたし、電気冷蔵庫もあった。
テレビやラジオはなく、雑誌や新聞も購読していなかったが、車は運転していたので、20世紀の利便性を完全に否定していたわけではないが、ほとんど無視していたと言ってよい。
ターシャは、毎日欠かさずお茶の時間を楽しんだ。
ターシャ・テューダーとのエピソードやバーモント州の自然の中で暮らす様子が、数々の美しい写真とともに4章にわたって紹介されています