高校卒業後の複雑骨折が人生の転機に
――ロシアの文豪トルストイによる長編小説『アンナ・カレーニナ』を、気鋭のイギリス人演出家フィリップ・ブリーンが新解釈で戯曲化、演出する舞台で、宮沢りえさん演じるアンナの夫、カレーニンを演じる小日向文世さん。来年、古希を迎えるという名優の転機になった出来事とは?
いま、『アンナ・カレーニナ』の本読みをやっているのですが、演出のフィリップさんの情熱がすさまじくて、毎日夜7時までびっちりなんです。
それに必死に食らいついているので、本読みが終わる頃にはみんな疲労困憊(笑)。
アンナと僕が演じる夫のカレーニン、若い将校のヴロンスキーの三角関係を軸にして、リョーヴィンとキティの物語が同時に進行していくんですけど、そこにあるのは国や時代に関係なく、人間なら誰しもが経験したことのある揺れ動く感情。
思い当たる節がたくさんあると思うので、どんな世代の方にも楽しんでいただける舞台だと思います。
――舞台に映像にご活躍が続いていますが、最初は俳優志望ではなかったそうですね。
絵を描くことが好きだったので、高校卒業後はデザインの学校に進学しました。
ところが入学した年の冬にスキーで複雑骨折をしてしまったんですね。
それで学校は断念せざるを得なくなりました。
最初の手術がうまくいかなかったみたいで、8回も手術することになってしまったんです。
治ってから、また一からデザイン学校に戻るのもな、と思って写真学校に編入したのですが、なんだかピンとこない。
骨折でさんざん痛い思いをしたのだから本当にやりたいことをやろうと思って自問自答していたら、ふと"俳優"が出てきたんです。
北海道の田舎出身の僕にとって、俳優というのは別世界の人がなるもので、やりたいなんて口に出すのも恥ずかしい感覚でした。
でも、子ども時代は活発で学芸会で目立つ役をやったりして、そのとき味わった快感が残っていたんでしょうね。
心の奥底を覗きこんだら、俳優になりたいという気持ちがあることに気が付きました。
――それで串田和美さんが主宰するオンシアター自由劇場に入団されたのですね。
最初は文学座を受けたのですが、30名の募集のところに6000人ぐらいの応募があって、僕もあっさり落ちました。
そのあと中村雅俊さんのコンサートスタッフを経て付き人をやっていたときに、「役者をやりたいなら、劇団に入った方がいい」と言っていただいて、自由劇場に入ることになりました。
座長の串田和美さんや看板女優の吉田日出子さんに厳しく鍛えていただいて、それが役者としての僕の基盤になっていますが、やはり一番の転機は骨折したことですね。
それがなければ、絵を描くことやデザインが好きだったので、当たり前にデザインの仕事に就いていたと思います。
でも劇団に入ってもなかなか役がもらえなかったんですよ。
なまじっかデザインや写真ができるから、裏方ばかり回ってくるんです。
それで25歳の頃に、座長に「辞めたい」と申し出たこともありましたが引き留められて、その頃から役がつくようになったこともあり、42歳で劇団が解散になるまで芝居にのめりこみましたね。
47歳まで自転車操業でもあせる気持ちはなかった
――劇団の解散後は仕事がない期間が続いたそうですね。
もともと映像がやりたかったので、解散が決まっても「これから新しい世界の扉を開くぞ!」と希望で意気揚々としていました。
だから舞台の仕事は来ていたんですけど、映像の仕事が入ったときのためにあえて舞台を断って、空けていました。
ところが映像の仕事がまったく来ない。
解散の3年前に結婚して、当時長男が1歳、その1年後には次男も生まれました。
暇だから、毎日朝から子どもと公園に行くでしょう。
妻のママ友には「何やってる人なんだろう」と思われていたでしょうね(笑)。
お金がなくなると社長に前借りしていたから、47歳まではずっと自転車操業(笑)。
それでも夫婦してバイトもせずに、「そのうち仕事が来るだろう」と不思議とあせる気持ちはありませんでした。
――47歳で出演したドラマ『HERO』で知名度を上げ、引っ張りだこになりました。
仕事のない状態が続いてたら、いまこんな風に笑って話せないんでしょうけど、当時もそんなにつらかった記憶はないし、だから乗り越えたという感覚もないんです。
待っている間も、仕事さえ来ればきちんと応えられるという自負があったので。
あとはやっぱり妻の存在ですよね。
ある程度仕事をいただけるようになってから聞いたことがあるんですよ。
「よくバイトしろとか言わなかったよね」って。
そうしたら、「なんとかなると思ってたから」って。
妻は劇団の後輩だったので劇団での僕を見てくれていた上で、映像ではまだ無名だから、なかなか動き出さないのは仕方がないと思ってくれていたみたい。
彼女が言うには、僕たちは前世で一緒に戦っていたらしいんですよ(笑)。
だからいまも同志みたいな感じがあるのかな。
順風満帆ではありませんでしたが、あのときこうしておけばよかったという後悔や未練はほとんどありません。
良いことも悪いことも、それがあったからいまがあると思うので。
骨折しなかったら役者をやってなかっただろうし、25歳のときに劇団を辞めていたら、役者として潰れていたと思います。
それに、女性に捨てられてばかりだったから、カレーニンの気持ちがよく分かるし、フラれなければ妻との結婚もないし子どもたちもいなかったわけですから。
家がとにかく好きという小日向さん。「だから仕事で地方に行っても、すぐに家に帰ってきちゃう。家ではメダカを育てたりゴムの木を世話したりYouTubeを見たりしています」
芝居のプレッシャーに慣れることはない
――これはつらいと感じることはなかったですか?
乗り越えられないかもというほどの恐怖を感じるのは芝居ですね。
特につらかったのが、三谷幸喜さん演出の舞台『国民の映画』でした。
セリフが出てこなくなるんじゃないかという不安で、本番直前に手を切ろうとまでしたんです。
血を隠しながら芝居をすれば、そっちに集中するから不安が解消できるんじゃないかって。
バカみたいでしょう?
でも舞台袖には刃物のように危ないものは絶対置かないので、そうこうしている間に開幕の時間になり、もう出るしかありませんでした。
そこまで追い詰められてなんとか切り抜けても、本番前のプレッシャーに慣れることはありませんね。
――来年、古希を迎えますね。
もうちょっとのんびりしたいですね。
僕、家が好きで、家で食べるご飯が一番好きなんです。
コロナで2カ月自粛期間があったときも、2回ぐらいしか外出してませんからね。
我慢しているわけじゃなく、家にいるのが楽しいんです。
いままではいただいた仕事は「はい、やります!」と受けてきたし、板の上で死にたいなんて口にしたこともありましたけど、いまは舞台の上では死にたくないなあ(笑)。
最近は死ぬときのことを考えるようになりましたね。
あと10年で80歳ですから、そんな遠い話ではないと思いますよ。
うちでおいしいご飯を食べてぼーっとしてるうちに逝くのが理想です。
できれば最後まで自分の足でトイレに行きたいし、そのためには健康でいたいですね。
それで元気におしゃべりしていたのが、「あれ、お父さんどこ行った?」ってみんなが探したら、玄関あたりでぽっくり......ていうのがいいよね。
取材・文/鷲頭紀子 撮影/下林彩子 ヘアメイク/大宝みゆき スタイリスト/石橋修一