2月に公開される映画「湯道」で人生初の映画出演をした、天童よしみさん。1972年に歌手デビューしたもののすぐには芽が出ず、大阪に戻りました。そのときに両親が天童さんに課した3つのことが、その後の歌手人生に大きく影響を与えました。映画の撮影やプライベートについてお話をうかがいました。
――2月公開の映画『湯道』でチャーミングな女性を演じている天童よしみさん。映画初出演ですね。
ありがたいですね。
「湯道」って何?と思われる方も多いと思うのですが、華道や茶道のようなお湯の道。
お風呂のお話です。
「まるきん温泉」という昔ながらの銭湯を舞台にいろいろな人のドラマが描かれて、こんなに笑えて感動する映画は久しぶりじゃないかと。
本当に元気が出ますよ。
私は子どもの頃からお風呂で歌っていたから、思いもひとしおでした。
映画の中でも、クリス・ハートさんと男湯と女湯でハーモニーさせてもらいましたが、おのずと息が合って、歌いながらいろいろな思いが巡って、胸がいっぱいになりました。
子どもの手を引いて歩いていくシーンは、監督が「哀愁のある感じで」とおっしゃいました。
歌もそうですが、演技も哀愁がないと人の心に入っていかない、ということなんですよね。
昨年、歌手生活50周年だったのですが、また新しい経験をさせていただいたなと思います。
――小さい頃から歌手をめざしていたんですか?
演歌の道に進んだのは父の影響です。
私はジュリー(沢田研二)が大好きで歌謡曲ばかり聴いていましたから。
当時、『今週のヒット速報』という歌番組があって夢中で見ていました。
子どもの頃から歌の大会で優勝したりしていましたから、父も希望を持ったんでしょうね、演歌歌手になってほしいと。
母はちょっと反対だったんです。
まだ10代でしたから、途中でやめることになったら、お世話になった方々に申し訳ないと。
けれど1972年にデビューが決まってからは誰よりも応援してくれて、父と祖母を大阪に残し、私と母の東京暮らしが始まりました。
――デビュー後はいかがでしたか。ご苦労などは?
なかなかヒット曲が出なかったんですよね。
歌は、売り出すまでに本当にいろいろな人が頑張ってくださってやっと売り出せる。
歌手は最後の最後でそれを表現して皆様にお届けする。
だから、ヒットが出なかった時代は、お世話になった皆さんに申し訳なく思ってました。
実は、父の判断でデビュー5年後に一度、大阪に引き上げることにしたんです。
そのときは、野原にぽつんとひとりでいるような心境でしたね。
家でテレビをつけると、歌仲間が出ているんです。
本来なら自分もそこにいるはず...と思いながらの私に、両親は3つの習い事をさせてくれました。
「歌手ではあるが、いまは仕事がないだけ。その間、この3つをクリアしろ」と。
1つは花で未生流、2つめは茶で裏千家、3つめは料理で辻調理師専門学校で学ばせてもらいました。
華道、茶道、料理、今回の映画の湯道もですが、歌とは関係ない世界を体験したことが良かったんです。
同世代の友達ができて楽しくて、普通の生活ができた。
作法も身につきましたしね。
茶釜まで買ってくれた両親にお茶をたてると、父が「これが歌ならな。お前も歌いたいやろ」と...父も相当つらかったんだと思います。
そうこうするうちに世の中がカラオケ時代になって、歌を教えてほしいと声をかけられるようになり、「天童よしみ歌謡教室」ができたんです。
教えるってすごいですね。
こういう歌が歌いやすくて、いまはこういうメロディーが受けている、こういう声には、こういう曲が合うなど、どんどん分かってくるんです。