2018年にがんで亡くなった女優・樹木希林さん。その治療にあたった放射線治療医・植松稔さんは、著書『世界初 からだに優しい 高精度がん治療』(方丈社)の中で樹木さんの長女・内田也哉子さんと対談し、約10年に渡った治療期間を振り返っています。今回は収録された対談の一部と、植松医師が考える「がん」について連載形式でお届けします。
樹木希林さんは、2005年に都内の病院で乳がんとリンパ節の摘出手術を受けられたあと、2008年に新たなリンパ節への転移が見つかり、植松医師を訪ねました。そこから約10年にわたり、鹿児島のUMSオンコロジークリニックで、放射線の4次元ピンポイント照射を受けたあと、最後はご自身で無治療を選択されました。乳がんを患った後も、たくさんの映画に出演されるなど、大変ご活躍されました。
●特別対談:植松稔医師×内田也哉子さん
カレンダーの裏の「内田啓子65歳」
植松:今日の対談のために希林さんのカルテをまとめていたら、とても貴重なものがでてきました。
11年前の2008年4月に、希林さんが内田啓子という本名で、初めて僕に送ってくださった手紙です。
内田:手紙が来たんですか?
これ、カレンダーですね?
植松:カレンダーの裏ですか。
内田:母はとにかくものを最後まで使いきる人で、カレンダーとか企画書の裏とか、白い紙は全部、断裁機できれいに切ってメモ用紙として置いておくんです。
だからこの手紙もそれに書いたんですね。
植松:僕がこの前の年に、がん治療についての講演を頼まれて、都内のホテルで話をしたことがあったんです。
その話を聞いてくれたあるクリニックの医師が、僕の本をクリニックに置いてくれて、希林さんがそれを読んで僕の治療に興味を持ち、手紙を書いてくださったんです。
その時、その医師が、「植松先生のところに行くんだったら、紹介状を書きますよ」と言ったんだけど、希林さんは、「それは困る、やめてくれ」とおっしゃったそうです。
内田:母はきっと、まっさらな自分で会いたかったんでしょうね。
植松:そうだと思います。
それで、初めて届いた手紙には、「内田啓子65歳」とだけ書いてあって、樹木希林なんて一言も書いていないわけです。
だから、僕も希林さんのお顔を見るまでは、内田啓子さんという、初めてお目にかかる人だと思っていました。
カレンダーの裏に診察依頼を書いてきた人というのも、今までお目にかかったことがなかったので、どういう人なんだろうと。
内田:ドキドキしますよね。
植松:「はい、こんにちは」といらっしゃった時に、そこで初めて「ああ、希林さんだったのか」となりました。
内田:母はもともと、自分のことに関しては秘密主義というか、わざわざ言う必要もないという感じでした。
再発してからも、自分の感情や悩んでいること、あるいは父のことなど、そういう個人的な思いはほとんど聞いたことがないんです。
だから、病気のこともしかりで、最初に乳がんがわかった時も、「もう10年前からあったのよね、しこりが」と言っていました。
「なぜそんな大事なことを言わなかったの?」と聞くと、「だって言ったってしょうがないじゃない。あなたもまだ子どもだったし、ここで手術してまたバタバタバタッと対処するのも嫌だから、見て見ぬふりして、どこまで行けるかっていうので10年きたのよ」と。
その時にはすでにステージ4になっていて、リンパ節にも転移していたんです。
それで、いよいよこれはまずいということで、その時は特にリサーチもせずに、簡単に手術してしまいました。
まわりにも、がんは切るものだ、という発想がまだその当時は多かったみたいで。
でも「その後の不自由さは本当に大変だった」と言っていました。
これまで愚痴は一度も聞いたことはないんですが、聞けば「そりゃ大変よ」と。
だから、切らずにがんを消す先生の治療に出会って興味を持ったんでしょうね。
誰にも相談はせず、自分で決めて先生に会いに行ったんだと思います。
植松:そのあたりも、あの当時からすでに、ご自分のやり方というものを貫いていらっしゃいましたね。
次のエピソード:「樹木希林さんは手術時点でステージ1だった」がんの標準治療とステージ
内田也哉子さんとの対談に始まり、ピンポイント照射が求められる理由、現代のがん治療のことが全7章からわかります。故・筑紫哲也さんの家族との対談も収録