2018年にがんで亡くなった女優・樹木希林さん。その治療にあたった放射線治療医・植松稔さんは、著書『世界初 からだに優しい 高精度がん治療』(方丈社)の中で樹木さんの長女・内田也哉子さんと対談し、約10年に渡った治療期間を振り返っています。今回は収録された対談の一部と、植松医師が考える「がん」について連載形式でお届けします。
樹木希林さんは、2005年に都内の病院で乳がんとリンパ節の摘出手術を受けられたあと、2008年に新たなリンパ節への転移が見つかり、植松医師を訪ねました。そこから約10年にわたり、鹿児島のUMSオンコロジークリニックで、放射線の4次元ピンポイント照射を受けたあと、最後はご自身で無治療を選択されました。乳がんを患った後も、たくさんの映画に出演されるなど、大変ご活躍されました。
●特別対談:植松稔医師×内田也哉子さん
なんとかしてほかの方法を
植松:也哉子さんと初めてお話ししたのは、実は、希林さんの病気のことについてではなかったんですよね。
也哉子さんがお世話になっている方に、ちょっと珍しいフィローデス(乳腺の葉状腫瘍)という病気が見つかって、ご相談いただいた時でした。
これは、乳がんではないんですが、手術で全摘出しても再発することが多い、ちょっと〝タチの悪い良性腫瘍〟なんです。
それが左側の乳房の半分以上の大きさになってしまったんです。
良性腫瘍だから臓器に転移はしないし、命に別状はないんですが、処置に困るんですよね。
その方は、希林さんから僕らの治療のことを聞いていて、ご自分では鹿児島で治療すると決めていたようなのですが、周りの外科医たちの猛反対があったそうです。
有名な方たちによくあるのですが、以前から懇意にしているお医者さんが大勢いて、病気のことについて相談すると、みんな標準治療を勧めるわけです。
もちろん善意からのお気持ちで。
それで、「放射線なんかで治るわけがない。絶対にやめさせなさい」と言われて、也哉子さんが僕に相談してくださいましたね。
内田:はい。先生と初めてお話ししたのはその時でした。
あの時、彼女は人生初の大病を患って、すごく落ち込んでいて、どうしたらいいか分からない......となってしまいました。
それでうちに来た時に、みんなでご飯を食べながら、母に病気のことを話したら「それは絶対植松先生に聞いたほうがいい、がんじゃないにしても、腫瘍なんだったら、まずセカンドオピニオンで先生にお伺いしたほうがいい」と言ったんです。
母自身は手術で乳房を切ったわけですが、その後の不自由さを身をもって経験しています。
だから、人が手術をすると言うと、「できるだけ手術は避けたほうがいい。なんとかして他の方法を」と考えていました。
切らずに放射線だけで治す植松先生の治療は、目からうろこだったそうなんです。
身体をがんじがらめにされるわけでもなく、短時間で受けられるストレスフリーな治療のスタ イルにも本当に感銘を受けていました。
それで彼女にも先生の治療を紹介したんです。
その時は母に代わって私から先生にお電話して相談させていただきました。
植松:僕も、放射線治療を受けてもらえば絶対に治ります、と保証できるわけではないんですが、ご本人が僕の治療を受けたいと思ってくださったので、力になれればと思い、お引き受けして鹿児島まで来ていただきました。
治療からもう6年以上になりますが、全く再発していませんね。
内田:そうですね。彼女も本当に喜んでいます。
植松:その後、お母様の病気について、初めて也哉子さんとお話ししたのは、映画『あん』が公開された頃だったと思います。
希林さんは、春になるとぜんそくがでて咳がひどくて、その様子を見たクリニックのスタッフが、それをがんの症状だと勘違いして、僕から詳しく病状を聞いてくださいと也哉子さんに連絡をしたんです。
その時は、希林さんの乳がん自体は、それまでの7年くらいとそんなに変わらない状態だったので、ちょっと顔を出してきては放射線で消すということを繰り返しながら治療していました。
だから僕からは「昔と比べて特に病気が悪くなっているわけではありませんよ」と、PETの画像をお見せしながら伝えました。
これが1回目。
それから数年後、いよいよ希林さんのがんがここまで進んでしまったかという時にご本人に「もう放射線治療ではどうしようもありません」とお話ししたら、「じゃあ娘も連れてきますから、娘にも同じ話をしてやってください」とおっしゃって、一緒に僕のところへ来てくださいましたね。
也哉子さんに希林さんの病気の話をしたのは、その2回だけでしたね。
次のエピソード:「ああ、樹木希林さんだったのか」内田啓子65歳からの手紙
内田也哉子さんとの対談に始まり、ピンポイント照射が求められる理由、現代のがん治療のことが全7章からわかります。故・筑紫哲也さんの家族との対談も収録