変わらないことを喜ぶ
他の人の子どもの成長は早いという話はよく聞きます。
子どもが幼い時は、少しの間も目を離すことができず、一日一日が大変で、一年の歩みが早く感じられるというようなことはありませんでした。
他の人はそんな日々の積み重なる苦労を見ていないので、久しぶりで見る子どもの成長に目を見張るばかりですが、親は子どもをそんなふうに見ることはできません。
それでも自分の子どもの成長の跡は見て取れますし、ふと気づいた時には、ついこの間までできなかったことができるようになっていることに驚かされます。
親の衰えは子どものこのような成長とは反対であるかというと、必ずしもそうはいえません。
たまにしか父に会わない人は、常に父の近くにいる私ほどには、父の変化に気づかないのです。
めったに会わない人であれば、父の変化を見て取ることはできません。
子育ての場面でのように、できないことではなく、できたことに注目すれば、子どもと同じく、昨日できなかったことが今日できるようになったことがあるかもしれないと思うのですが、実際にはできるようになったことを見つけることは簡単ではありません。
しかし、昨日と変わらないことならいくらでもあります。中には急速にできなくなることもあるでしょうが、できなくなるとしても時間をかけて徐々にできなくなるので、短期的に見れば、昨日と今日とでは変わらないことのほうがむしろ多いはずです。
親との関係においては、この変わりがないということを喜びたいのです。
今ここに一緒にいることを実感する
過去と今を比べ、子どもの成長には目を見張り、親の衰えには落胆することはあるでしょう。
しかし、子どもでも親でも共にいられる時間を大事にすれば、子どもの成長はゆっくりと、親の衰え、病気の進行は遅く感じることができます。
父と今ここにいることを実感できるのは、一緒に笑える時です。
一緒に笑う、笑いを共有する時、父と私の意識が指し示す方向が同じであることが実感できるからだと思います。
父と一緒にいても、大抵は父は違う方を向いていて、たとえ、何人かで食事をしても父はその中に入ってこられません。
みんながまだいるのに、自分が寝ようと思ったら、暑いので開け放ってあった窓を閉めて寝に行こうとしてしまいます。
何とか父と同じ場にいたいですし、同じ方に目を向けたいと思います。
父と私が同じ時に笑う時には、それが実現していることがわかるのです。
過去を忘れなければ今に集中することはできません。認知症の人の生き方はむしろ私たちにとってモデルであると考えることもできます。
「あなたはあの時こういった」といつまでも過去のことを覚えていることは不幸なことです。
よい思い出ならまだしも、何かのことでもめたようなことであれば、思い出すだけでも、相手との関係を悪くしてしまいます。
むしろ、今、目の前にいる人との関係をよくはしないでおこうという決心がまずあるので、過去の無数にある出来事の中からその人との関係がうまくいかなかったことを思い出すというのが本当です。
そうすると、親が過去のことを覚えていないということは、過去のことを思い出す必要がないということであり、過去に何があったかはもはや問題とはせず、今、まわりの人との関係をよくしたいので、過去のことを思い出す必要がないと見ることができます。
父は、忘れてしまったことはしかたがないという言葉に続けて「いっそ全部忘れて一からやり直したい」といったことがありましたが、誰かとの関係がうまくいかなくなったけれども、何とかしてその人との関係を再建したいと思った人で、それまでのことをすべて忘れたいと思わなかった人はないでしょう。
過去を忘れることは、思われているほど悪いことではないといえます。
父はこういいたいのではないかとこの父の言葉を聞いて思いました。
「忘れてしまったことはしかたがないが、今、そしてこれからの時を大切にしたい」。
これは、諦めではなく、未来に向けて生きることの決意表明と見たいのです。
そして、この父の決意表明を受けて、まわりはそれを援助することができます。
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アドラーが親の介護をしたら、どうするだろうか? 介護全般に通じるさまざまな問題を取り上げ、全6章にわたって考察しています