父にすれば一人で気ままに過ごしていたかったのかもしれませんが、私は助かりました。デイサービスやショートステイは親のためというよりも、介護する子どものためのものでもあります。
初めてショートステイに行った父は夜中に目を覚ました時、自分がどこにいるか、なぜいつもとは違うところにいるのかわからず、スタッフに「ここはどこですか。なぜ私はここにいるのですか」とたずねたと記録に書いてありました。
また、夕方帰れると思っていたのに泊まることになっているのを知った父は「家で息子が待っているのだ」と声を荒げて「帰る」といったそうです。
子どものために親にデイサービスやショートステイに行ってもらうのだと認めていいと思います。
親から離れる時間があってこそ身体も気も休まり、新たな気持ちで親に向き合うことができます。
しかし、これらのサービスはただ子どものためのものではありません。
デイサービスについていえば、ちょうど子どもたちが保育園に行くことが子どもの成長にとっても有用であるのと同様、そこに行くことが親にとって有用です。
サービスを利用する前に見学をしたり、その後も見学に行って親がどんなふうに過ごしているかを見れば、安心できるはずです。
もしも何か問題があっても、きちんと対応してもらえるはずですが、そうでなければその施設ではだめだということです。
父はデイサービスから帰ってくると、よく怒っていました。
「惚けてる人がきてる、あんなふうにはなりたくない」という父の言葉にどう返していいかわかりませんでした。
「今日は疲れた。あんなのいやだ。待ってるだけで退屈だった。何かをするということをはっきりいってもらったらいいのに何もいってもらえないので退屈だった。もったいない。こっちも何をしたいといえない」
この発言は、父が自分の置かれた状況をよく理解していることがわかります。
「前は、碁とか将棋をしていた」と父はいいます。
しかし、このようなことをいって、一見デイサービスに行くことをいやがっているように見える父が一番デイサービスで楽しんでいるということはありえます。
デイサービスの時に、父が若い時に覚え、その後も折りがある度に歌っていた軍歌をカラオケで歌ったという記録を読んだ時、デイサービスは父にとって言葉でいっているほどにはいやなところではないことを知りました。
「軍歌を歌ったんだって?」と父にたずねると「そんなん歌ってない」と言下に否定するのですが。
私自身が病気で入院していた時、医師も看護師も、また見舞いにくる人も皆自在に歩けることを見ると、自分が自由に歩くことすらできないこと、自分が病者であることを強く意識しました。
デイサービスでは同じような状態の人が集うわけですから、父が自分は惚けてないというようなことをいうと困惑しましたが、そこで他の人やスタッフと語らうことは大切です。
家族が親を在宅で介護することではできないことなのです。
父はあれこれ文句はいいますが、デイサービスで人に触れ合うことは、父が一日私とだけ顔をつきあわせているよりも治療的にも効果があるように思いました。
デイサービスでは、また今父がいる施設では一日の大半の時間を他の人と共に過ごしています。
実際にはテーブルの隣にいる人たち同士でコミュニケーションがないようにも見えますが、父は大きな声を出す人には怒り、スタッフとは昔の話などをしています。
ともあれ、昼間の何時間かの間、デイサービスで過ごすことは、それだけでもありがたいことです。
もちろん、父は何もしていないわけではなく、実際には入念に組まれたプログラムにしたがっていろいろな働きかけをしてもらっているのです。
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アドラーが親の介護をしたら、どうするだろうか? 介護全般に通じるさまざまな問題を取り上げ、全6章にわたって考察しています