「私の人生は何だったのか」と思わずに晩年を生きるために。「次世代のために木を植える」【哲学者・岸見一郎さん】

今を生きる

「一体、私の人生は何だったのか」と思わないで生きられるために考えなければならないもう一つのことは、今を生きることである。後世に何かを残すということと相容れないと思われるかもしれないが、何かを残そうとすれば、先のことを考えてはいけないのである。

サマセット・モーム(※5)が次のようにいっている。

「あまりに時間がかかるというので若い時は避けるような仕事にも、老年になると造作なく取りかかれるものである」(The Summing Up)

これは普通に考えられていることと反対である。老人は人生に限りがあると考えて大きな仕事に着手しようとしないが、若い人は自分の前にある人生が長いと考えるので、大きな仕事を手がけられると普通は考えるが、実際には、若い人の方が時間があるはずなのに、手がけようとしないことがある。数えるからである。時間はあったのに、なぜ途中で仕事を投げ出すのかといわれることを恐れ、必ず完成できるという確信がなければ着手しようとしない。

他方、老人は残りの人生が短いことを当然のこととして受け止めているので、数えない。手がけた仕事がたとえ完成しなくても、そのことで誰からも責められることはないだろうと考えられる。

鈴木大拙(※6)は、親鸞の『教行信証』の英訳の仕事を引き受けた時、九十歳間近だった。しかし、翻訳を成し遂げられるだろうかとは考えなかったのであろう。誰かが手がけなければ、跡を継ぐ人もいない。その誰かになろうと思ったのだろう。

たしかに、老人であっても、あるいは老人であれば、若い人以上に先の人生が短いことを思って大きな仕事に取りかかれないことはあるだろうが、仕事だけでなく先のことを考えないで生きられるようになれば、人生で成し遂げてきたことが何も残らないのではないか、自分のことも忘れ去られるのではないかと絶望することはないだろう。

※5 1874〜1965年。イギリスの小説家、劇作家。著書に『月と六ペンス』などがある。
※6 1870〜1966年。仏教学者。禅について英語で著作を行った。著書に『日本的霊性』『禅とは何か』などがある。

※記事に使用している画像はイメージです。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事に関連する「ライフプラン」のキーワード

PAGE TOP