月刊誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「過去の自分を責めない」です。
この記事は月刊誌『毎日が発見』2024年3月号に掲載の情報です。
応答としての責任
『サムダルリへようこそ(※1)』というドラマに友人を海で亡くした海女の話がある。
海は今は穏やかに見えても、突然うねりが強くなることがある。ある日、海が荒れることが予想され漁は中止になったが、コ・ミジャは昨日も一つも採れなかったからと、もう一度潜ると言い出した。親友のプ・ミジャは、
「今は穏やかに見えても、途端に荒れるのが海。明日にしよう」
と翻意を促した。
「私は少し潜るから先に帰ってて。うねりを感じたらすぐに戻るから」
プ・ミジャはそれを聞いて、大目玉を食らうといいつつも、友人を一人にしておくわけにいかず、一人で叱られることになってもいけないと思ったのだろう、結局、一緒に潜ることにした。
そのプ・ミジャが遭難し亡くなったのである。コ・ミジャは、もしも自分が潜るといわなかったら彼女が死ぬことはなかっただろうと自分を責めた。はたして、彼女は友人の死に責任があるのだろうか。「責任」は英語ではresponsibilityという。「応答できること」という意味である。床に茶碗を落として割った時、それを落とした人は茶碗が割れたことに責任がある。「誰が茶碗を落としたのか」と問われた時に、責任感のある人は「私です」と応答できる。しかし、名乗り出ず、応答しない人は無責任である。
※1 動画配信サービスのNetflix(ネットフリックス)で配信中のドラマ。
関係がないことはない
今ここで起きたことだけに責任があるのではない。
「この世界でわれわれと関係ないことは何一つない」(Phyllis Bottome, Alfred Adler )
これはアドラー(※2)の言葉である。中国のどこかで子どもが殴られている時、われわれにそのことに責任がある、われわれが責められるべきだとアドラーはいう。
責任があるといわれても、その中国の子どものことを知らないという人はいるだろう。しかし、世界のどこかで戦争が行われ、毎日多くの人が殺されているという報道に接した時に、心が痛まない人はいないだろう。戦争で傷つき殺された人のことを知らなくても、自分の、また自分の家族の身に起きた出来事のように感じられる人は、戦争が自分と無関係とは思えないだろう。この世界で起きていることには皆に責任があるので、我が身のこととして感じられなければならない。我がことのように感じられない人は、自分を安全圏に置き、対岸の出来事のように見ているのである。
災害に遭った人の苦しみに共感できない人もいる。地震のために瓦礫の下に埋もれた人の痛み、停電し食料も水もない中、避難生活を余儀なくされる苦しみと不安は情報が十分なくてもわかるはずだ。
※2 アルフレッド・アドラー(1870〜1937年)。オーストリアの精神科医、心理学者。