哲学者・岸見一郎さんが語る「人生の筋書きは決まっていない」

それでも生きる

ギリシア悲劇では、ストーリーが行き詰まると作家が「機械仕掛けの神」(デウス・エクス・マキナ)を持ち出して、主人公を死なせるなどして問題を解決してしまうことがある。しかし、現実はそんなふうにはいかない。人生に行き詰まっても、なお生き続けなければならないのである。

不治の病であることを宣告されても、必ずしも人が思うように死が訪れるとは限らない。キューブラー・ロス(※4)は、死の淵から脱して寛解期に入った患者は、残りの時間がないと思っていた方が幸福だったといっていると報告している(『ライフ・レッスン』)。人は物語が終わると消えてしまう映画やドラマの中の登場人物ではない。人生はドラマのように主人公の死をもって終わらない。最後の日だと考えていても「次の日」がくるのが人生である。

今は私は次のように考えている。ストア哲学では「権内(けんない)にない」という言い方をする。自分の力が及ばす、コントロールできないという意味である。人生には権内にないことが起こり行く手を遮ることがある。しかし、病気になることは権内になくても、健康を害するようなことはしないで生活することはできる。病気になった時には、我が身の不運を嘆かず治療に専念できる。また、悪政の下で我慢して生きるのではなく、政治をよりよいものにするためにできることはある。

アウレリウスは「何かを追いかけず、避けもしないで生きる」(前掲書)というが、何も追いかけないということではなく、権内にないことは「追いかけず」に直面する。権内にあることであれば避けないで生きるということである。

※4 米国の精神科医。1926年〜2004年。著作に『死ぬ瞬間』などがある。

※記事に使用している画像はイメージです。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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