定期誌『毎日が発見』の森永卓郎さんの人気連載「人生を楽しむ経済学」。今回は、「労働市場三位一体改革」についてお聞きしました。
対照的なデンマークとオランダ
岸田総理は、国会の施政方針演説で「リスキリング(※1)」「職務給」「労働移動」という労働市場の三位一体改革を実施すると宣言しました。
これまでの年功序列・終身雇用という日本的雇用慣行を改革して、アメリカ型のいつでも賃下げや首切りができる労働市場に変える。
そして、仕事を失った人には再度教育訓練を行い、より報酬の高い、成長性の高い分野への転職を支援していきましょうという考え方です。
この政策の背景には、2000年代前半に流行した「フレキシキュリティ」という考え方があります。
フレキシビリティ(柔軟性)とセキュリティ(保障)の合成語で、解雇や賃下げを禁止するといった労働者保護をするのではなく、柔軟な解雇や賃下げを認めることで、停滞産業から成長産業への円滑な労働移動を促進したほうが、結果として、雇用保障につながるという考え方です。
フレキシキュリティが、モデルとして想定したのが、デンマークでした。
デンマークでは、企業が原則自由に労働者を解雇できることになっています。
理由を明らかにして解雇予告をする必要はあるものの、理由さえ明示すれば解雇できるのです。
その一方で、解雇された人に対しては、国や企業が手厚い就職支援を行うことになっています。
そうした労働政策の結果、デンマークの2007年の失業率は3.8%と、当時の日本と並ぶ低い水準になっていました。
そして2007年のデンマークの一人当たりGDPは、5万8641ドルと、日本の1・6倍で、OECD(※2)諸国のなかでも、かなり高い水準だったのです。
ところが、2008年9月にリーマンショックが発生すると、デンマークの失業率は急激に上昇し、2010年には7.8%に達しました。
解雇しやすいのですから、経済危機が起きた時に失業率が上がるのは当然のことです。
また、2010年の一人当たりGDPは、5万8177ドルと、2007年より減少したのです。
経済危機の下では、フレキシキュリティが機能しなくなることは明らかです。
一方、デンマークのすぐ近くに位置するオランダは、デンマークとは対照的な雇用政策を採ってきました。
労働者を解雇しようと思ったら、地域の「職業所得センター」という地方労働委員会のような組織に申請して許可を得るか、裁判所の許可を得ることが必要です。
実際には、職業所得センターへの申請はあまり行われないために、事実上ほとんど解雇できないような状態になっているのです。
OECDが、労働者の保護度合いを国際比較できるように「労働者保護の厳格性」という指標を公表しています。
2008年の正社員に対する保護の度合いは、デンマーク1.63 に対してオランダは2.72となっていて、オランダは圧倒的に労働者を保護しています。
ちなみに日本は1.87と、デンマークとオランダの中間です。
さて、オランダの2007年の失業率は、5.3%でしたが、リーマンショックの影響を受けても、2010年に6.1%と、あまり上がりませんでした。
やはり解雇規制が厳しいと、失業率は上がりにくいのです。
一方、オランダの2007年の一人当たりGDPは、5万8180ドルとデンマークとほぼ一緒でしたが、2010年は5万1166ドルへと減少し、デンマークよりも減少率が大きくなっています。
さらに、2022年のデータ(IMF(※3)の推計値)でみると、オランダの5万2363ドルに対して、デンマークは6万5713ドルと、オランダよりも25%も大きくなっています。
※1 新しい業務や職業に就くために技能を学び直すこと。
※2 経済協力開発機構。38カ国の先進国が加盟している。
※3 国際通貨基金。国連の専門機関の一つ。
中高年層は報酬減の人が増えてしまう...
つまり、労働市場の流動化を進めたほうが、経済成長率が高まるということは、事実である可能性が高いのです。
ただ、成長率上昇の恩恵は全員が受けられるのではありません。
流動化が進むと、強い人はますます多くの報酬を得るようになり、弱い人は転落していくということが起きるのです。
例えば、会社の早期退職優遇制度を利用して退職をした社員は、退職前よりも高い報酬を得るようになる人と、最低賃金に近い報酬しか得られない人へと二極化します。
もちろん、報酬を大きく増やす人は、少数です。
また、少なくとも中高年以上の年齢の人は、リスキリングによって、高い職業能力を身に付けられる可能性は、ほとんどありません。
中高年になってから勉強してIT技術者になれるかといったら、なかなか難しいというのが現状でしょう。
ですから、岸田政権の進める労働市場三位一体改革が実現したら、恩恵を受ける中高年は少数で、大部分の人は、賃金の大幅な低下に見舞われると思います。
そうした副作用を伴いながらも、経済が成長したほうがよいのかどうかは、判断が分かれるところでしょう。
ただ、すでに引退している高齢者にとって三位一体改革は、大きなメリットとなります。
経済が成長したほうが社会保障の財源が増える一方で、引退した人は、リストラされたり賃下げになるリスクがないからです。