<この体験記を書いた人>
ペンネーム:キジトラ
性別:女性
年齢:46
プロフィール:アラサーでオーストラリアへ移住。夫と2人で旅行を楽しむのが趣味の主婦です。
2004年に91歳で亡くなった祖父は、戦時中は軍人として陸軍に所属していました。
終戦後、祖父は運よく日本へ帰国し、復員することができましたが、家族に軍人時代の話をすることはほとんどありませんでした。
敗戦のショックもあり、祖母もあえて訊かなかったそうです。
ちなみに、祖父の体には銃弾が貫通した痕が2カ所あり、被弾を受けた片方の耳たぶがありません。
しかし、いつどこで負傷したのかは、聞いたことはありませんでした。
そんな祖父ですが、生涯で一度だけ戦時中の話を口にしたことがありました。
それは祖父の米寿を祝うため、家族全員が集まった時のことでした。
当時、祖父はアルツハイマーを患っており、1日中「飯は食ったかいの」を繰り返す状態でした。
その祖父が、祝いの席の場で突然、遠くを見るような目で戦時中の話を始めたのです。
話によると、祖父は某国のある都市で終戦を迎えたそうです。
祖父がいた隊は日本へ帰国するため、徒歩で船が迎えにくる港まで向かいました。
敵から身を隠すため森の中を通り、その道中でたくさんの獣を殺し、お腹いっぱいになるほど食べたそうです。
皮肉にも、兵士になって以来、一番食べ物を口にできたのだとか。
祖父は『毎日が宴会だった』と振り返ります。
港に到着した頃には、他の地域から来た軍人たちが瘦せ細ってガリガリの状態の中、祖父の隊の隊員たちだけがふっくらとしていたそうです。
祖父は目に涙を浮かべつつ、笑いながら話していました。
そしてその3年後、祖父は亡くなりました。
祖父の没後、祖母が専門の方に依頼し、祖父の戦跡を調べてもらいました。
すると、祖父が唯一語った戦時体験の裏に、とんでもない事実が隠されていたことが判明しました。
調査によると、敗戦を迎えた祖父たちの隊は、日本兵の掃討を狙うゲリラの襲撃を避けるため、危険なジャングルの中を通って港まで向かったそうです。
道中、ゲリラの襲撃に何度も遭い、その都度、仲間の兵士たちが命を失っていき、港へ命からがら辿り着いたとのことでした。
祖父は戦時中、何度か戦闘に参加していますが、敗戦後の港までの道中こそが、もっとも過酷な体験だっただろうとの話でした。
アルツハイマーを患い、日に日に記憶を失っていた祖父にとって、生涯を通じて強烈な記憶として残っていたのがその時だったのでしょう。
弾薬もなく、ゲリラの襲撃から身を隠しながら、ただただ祖国を目指すことだけに精一杯だった祖父の隊。
そうなると、気になるのは祖父が語っていた毎晩が『宴会状態』だったという話です。
父(76歳)によると、祖父の生まれ故郷では、人が亡くなった際には死者の魂を慰めるため、葬儀のあと、一晩中みんなで賑やかに宴会を催す慣わしがあるそうです。
きっと祖父たちは「明日は自分が死ぬかもしれない」という状況の中、みんなで賑やかに、死んだ仲間たちの魂を慰めていたのでは? と推測してしまいました。
本当は祖父がどういった気持ちで話していたのかと思うと涙が出てきました。
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