<この体験記を書いた人>
ペンネーム:ぴろ
性別:女
年齢:56
プロフィール:妹の家の犬におやつを作るのが最近の楽しみです。
実家は代々、商店をやっていました。
母はそこへ嫁いだのですが、父は商売向きな人ではなく、実質的に母が中心となって商売をしていました。
父と母が継いだときには、家族だけで経営していました。
母(当時31歳)は家事と家業を一手に引き受けて、いつも忙しく働いていました。
そんな母の姿が私(当時6歳)の記憶に残っています。
お店の休みは年に1日、お正月だけ。
母は家業の他に内職のようなこともやっていました。
お店を閉めて、夕食をとった後、毎日のように近所の人に頼まれたセーターやベストなどを編み機で編んでいたのです。
母は朝から晩まで寝る間も惜しんで働いていました。
今思えば、そんなに働いて体を壊したら元も子もないと思うのですが、当たり前のように母は働いていたため、幼心にお母さんとはそういうものなんだ、と思っていたような気がします。
母は「忙しい忙しい」と言っていましたが、いつもほがらかで陽気な人でした。
家の中で何かあって怒っていても、お店に出るといつも笑顔でした。
しかし、小学生になってから一度も事業参観に来てくれたことはありません。
学校行事で母が来てくれたのは入学式、卒業式だけです。
私は家でもおしゃべりした記憶がないくらい無口な子どもでした。
小学校4年生くらいのときには、クラスに友だちさえいませんでした。
学校からの帰り道、クラスの数人の子たちに付きまとわれて、嫌がらせをされるようになって、思うように家に帰れないことが続きました。
話すのが得意じゃないので、相手に嫌だとも言えず我慢。
それくらいのことなのですが、嫌だと思いながら過ごしていたので、食欲もなくなって、もともと明るくないのに、いつもより暗くなっていたんだろうと思います。
ある日の学校帰り、いつものように私の行く手をクラスメイト3人くらいが阻んできました。
もう少しで家、というところで、いつも忙しい母がそのクラスメイトの前に立ちはだかったのです。
「うちの子になんの用なの? 毎日やってるよね? 用がないならやめてくれない?」
強い口調で言う母に、クラスメイトたちは言い返すこともできず、ばつがわるそうに散っていきました。
そのあと、どうしたのか記憶にないのですが、その日を境に私への下校時のつきまといは終わったのです。
お母さんは知っていたんだと思いました。
言っていなかったのになんで分かったのでしょう。
それまでは、お母さんは忙しいから私のことなんて、どうでもいいんだと思うこともありました。
でも、このことがあって、お母さんは私のことを見ていてくれたんだと感じて、少し嬉しくなりました。
こうやって過去の話を思い出すたび、後悔が募ります。
大人になっていろんな話が聞きたかった、あのとき私はこうだったけど、お母さんはどうだったって話がしたかったなと。
時がたって、お互いにゆっくり話せると思った頃には遅かったのです。
母は認知症で会話が成り立たなくなり、間もなく亡くなりました。
過ぎてしまった時間は戻らないと思いながらも、残念でなりません。
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