認知症が進んでも孫への愛情を忘れなかった祖母。優しさと愛情は一生忘れません...

<この体験記を書いた人>

ペンネーム:わんわん
性別:女
年齢:51
プロフィール:会社勤めの主婦。55会社員の夫、20大学生の息子と3人で首都圏在住。

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18年前、あと数日で100になる間際に老衰で亡くなった母方の祖母。

祖父もとても家族思いの自慢のおじいちゃんでしたが、祖母より20年ほど早く、83で病気で亡くなったので、祖父に関しては高齢で寝たきりになった姿を私は見ていません。

祖父の人生も波瀾万丈で苦労の連続でしたが、祖母との思い出を聞いてください。

簡単に祖母の人生を振り返ると、1904年に神戸の裕福な家庭で生まれ、その実家も時代に翻弄されながら没落していくのですが、祖母は女学校を出て教員になりました。

職場で出会った祖父と結婚し、京都府の山深い場所にある、祖父の生家に転居しました。

そこで5人の子どもを持ち、この内の1人が私の母です。

貧しい田舎暮らしの中で、祖父の教員の給与だけで、子ども5人全員を大学まで進学させました。

女子も手に職を持って、自分の力で生きていけるようにという祖父母の願いで、私の母も教員となり、定年まで働くことができ、現在83歳、老後を楽しんでいます。

祖父母は子どもたちの大学進学や就職、結婚がやっと終わったか終わらないかの頃、また大仕事を引き受けることになりました。

教員となった母や母の姉もまた職場結婚し、共働きとなっていました。

そこで、祖父母は田舎の家や畑を離れ、孫たちの世話をするために2人で大阪の長屋へ引っ越してきたのです。

その当時、祖父73、祖母は70

それまでの苦労を思えば楽隠居してもおかしくない年齢です。

当時私は3歳、妹はまだ生まれていませんでした。

他に私の従兄弟が2人。

赤ちゃんから幼稚園児までの一番手がかかる時期の子どもたちを、朝から夜まで預かり、幼稚園に送迎し、保護者会にも出席し、孫が病気になれば病院へ連れていく日々。

私の両親を含め、祖父母にとっては娘夫婦にも離別や死別といった不幸があり、そのときは娘たちを支え、孫の私たちにはいつも笑顔を向けてくれて、祖父母の愚痴など一度も聞いたことがありません。

そんな生活が10年近く続いた頃、祖父は長年患っていた病気が悪化し83歳で亡くなりました。

祖母は当時80歳、既に離婚していた私の母と暮らすことになりました。

その頃には孫たちもあまり手がかからなくなり、旅行に行ったりもできるようになりました。

旅先での祖母の写真が何枚か残っています。

本当なら祖父が生きていた頃、祖父母夫婦で旅行できたらよかったのにと、お世話になった私としては申し訳ない気持ちがします。

祖母が倒れて半身不随になったのは私が20歳の大学生の頃、93歳でした。

最初は自宅で母が介護をしていましたが、次第に認知症が進んでいきました。

亡くなるまでの最後の3年ほどは介護施設に入りました。

祖母が亡くなる1年前、私が26歳、妹が20歳のとき、私と妹が2人揃って面会に行った日がありました。

施設に着くと、祖母はベッドで眠っていました。

私たちが祖母に顔を近づけ「おばあちゃん」と声をかけると目を覚ましました。

いつも薬のせいかうつらうつらしている祖母がはっきりとした優しい口調で話しかけてくれました。

「あんたたち、遊びに来たの? うちにはたいした玩具もないけれど、遊んで待っててくれる? 何かおいしいものでも買ってくるから」

そう言って、体を動かそうとしました。

もうすっかり子どもの頃とは顔も変わってしまった私たち姉妹に、小さかった頃の姿が重なり、記憶が蘇ったのだと思いました。

体を自分で動かすこともできないのに、孫のために美味しいものを用意しようとする祖母。

その姿に胸を突かれました。

今でも思い出すと、祖母が愛してくれた孫である自分が誇らしくなるような温かい気持ちになります。

祖父母が注いでくれた愛情にふさわしい人になりたいと思います。

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