<この体験記を書いた人>
ペンネーム:カサブランカ
性別:女
年齢:43
プロフィール:バツ2の43歳。20歳年下の外国人夫と国際結婚し、第3の人生スタート。普通ではない人生を強く生きていきます。
もう12年前の、一度目の結婚の時の話です。
当時私は31歳で元夫は33歳、結婚5年目で義母(当時60歳)とはとても仲が良く、一緒に買い物している時は、実の母娘と間違われるほど良好な関係を築いていました。
一方、義妹(当時31歳)と義母は仲が悪く、義母は義妹をはれ物のように扱っていました。
義妹は学歴優秀ですが、愛嬌がなく家事もせず実家に住んでいました。
その義妹が出会って間もない子連れ男性と結婚することになったのです。
いわゆるできちゃった婚です。
連れ子(当時10歳男子)は母親ではなく、父親と父方の祖父母と暮らしていました。
離婚後に母親が引き取らなかった理由ははっきりとはわかりませんが、聞くところによると派手な女性であったらしく、子育てよりも自分の身なりを一番に気にかけ、育児放棄があったようです。
そのため祖母は母親役として連れ子を大事に育てていたと思います。
私には4歳になる娘がいたため義妹の結婚相手の子どものことが心配で、気にかけていました。
一度、義父母を問い詰めたことがあります。
この義妹の結婚に反対しないのか、連れ子の気持ちを考えた上での承諾か、ましてや短期間の交際で妊娠し、連れ子との関係さえも構築していないのに、こんな勝手な行動を許容するのか、と。
義父母は複雑な表情で言葉を濁していました。
義父母はそろって高学歴です。
それなのに、義妹がこんな形で結婚しようとしていること、それを義父母も黙認したとこに私はショックでした。
想像していた通り、連れ子は義妹にはなついていませんでした。
両家のみで海外挙式したのですが、連れ子は式後の会食でも落ち着かない様子で、気持ちが不安定なのかもしれないと心配でした。
私はその重苦しい空気が我慢できず、連れ子と娘の3人で会場を出てホテル内を散歩したり、部屋でぶどうジュースをワインに見立てて乾杯したり、せっかくの海外旅行を楽しく過ごせるよう努めました。
おかげで連れ子は娘と遊んで楽しそうで、私にもなついてくれました。
ゲームをした時、キャラクターに女性の名前がついていたので誰? と聞くと、「お母さん」と答えました。
それ以上は話してくれなかったのでこちらも聞きませんでしたが、寂しそうな表情をしていたことを覚えています。
連れ子の中の母親像はどうなっているんだろうと心が痛み、それと同時に義妹がその子をちゃんとケアしているのかと、不信感を抱きました。
私の行動を連れ子の祖母はとても感謝してくれ、私との距離が近くなっていきました。
帰国後には義妹とともに私と娘も自宅に招待してくれ、手料理でもてなしてくれました。
しかし、この状況に義妹が嫉妬したのです。
そして、それに義母も同調して私につらく当たるようになり、どんどん私との関係が悪化していきました。
それでも連れ子のことが心配だったため、義母にもっと連れ子の気持ちに配慮するよう義妹に言った方が良いのではないかと話したことがあります。
その時の義母の言葉が忘れられません。
「あなたは強いのよ、言っていることも正論だと思う。でも人ってそうじゃないでしょう? 人は弱くて傷つきながら生きているのよ!」
人の痛みをわからない人物のように切り捨てられてしまいました。
時間が経った今、落ち着いて考えてみると、嫁ではなく実の娘をかばった義母の感情は至極まともだと思います。
そんな当たり前のことをわからなかった私が世間知らずだったと言えるでしょう。
一方で、自身の娘を叱責することもせず、私だけを悪者にした義母に失望したことも事実です。
その後、義家族に私が心を開くことはありませんでした。
このことに関して元夫と何度も話しをしましたが、彼はあくまで中立の立場に徹していました。
私としては孤立していく私側についてもらいたかったのですが、残念ながらこの溝が埋まることはなく、離婚の要因の一つになったのです。
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