<この体験記を書いた人>
ペンネーム:Qさん
性別:男
年齢:43
プロフィール:3姉妹(中3、中1、小5)を子に持つ親父。
私は3姉妹(中3、中1、小5)を子に持つ43歳の父親です。
父親は自分が大学の時(20才)に事故で亡くなりました。
当時、父親は49才、事故が起きたのはクリスマスでした。
予期せぬ死だっただけに「もっと生きたかっただろうな」「悔しかっただろうな」としみじみ思います。
亡くなって23年が経ちますが、未だに父親のことは鮮明に覚えています。
亡くなった当時、自分は大学に通うため実家を離れていました。
朝一番で、母親が泣きながら電話をしてきました。
「お父さんが死んじゃった...。クリスマスだけど帰ってこれる?」
私は母が何を言っているのか分からず、理解するまで時間がかかりました。
予兆なんてなかったじゃん! 一年前の正月の時は元気だったじゃん!
しばらく信じられず涙すら出ませんでした。
取り乱している母親を何とか落ち着かせ、今から帰るからと電話を切りました。
「もうこの世に親父はいないんだ...」
じわじわ実感としてこみあげてきたのは、友人に空港まで送ってもらった車の中。
友人には悟られまいと涙をこらえるのに必死でした。
夜、1年振りに帰省した実家では、通夜の準備が進められており、邪魔にならないよう、隅にいることしかできませんでした。
親父が死んだ、と現実を突き付けられたのは、棺が運び込まれた時です。
運び込まれた棺に走り寄り、小窓から中を覗くと血の気のない、しかし穏やかに目を閉じた親父がそこにはいました。
本当に穏やかに寝ているようでした。
親父が死んだ! 本当に死んだ! 堰を切ったように感情が溢れました。
「何しとるん⁉ はよ、目ぇ覚ませや!」
そう言いながら棺を殴り、棺に穴を開けてしまったことは、今でも家族にからかわれます。
「落ち着け! あんたが落ち着かんでどうする⁉」
その時は祖母が自分に抱きつき、小柄な体で必死で自分を制してくれました。
現在の歳になり、周りで父親を闘病のすえに亡くした友人や同僚も見てきましたが、衰弱していく親を看取るのと、突然死を突き付けられるのとどちらが辛いだろうとよく考えます。
どちらも辛いことには変わりはないのだろうけれど...。
親父は普段から茶目っ気があるというか、悪戯や冗談が好きな人でした。
思い出せばキリがありません。
幼少期にバイクに乗せてくれた時、親父がゆらゆらバイクを揺らすので、冗談じゃなく本当にコケる! と必死で親父に「もーやめて~!」で大声で懇願したこと。
夏休みの工作は、いつも親父が作ったと一目で分かる立派な作品を持たされたこと。
高校時代、親父に殴りかかって返り討ちにあい、悔しくて家を飛び出したこと...。
大学時代は、照れもありあまり話さなくなったことに加え、家を出たため年に一回程度しか親父に会いませんでした。
最後に話したのは、正月に近所の神社で煙草を吸っていたときです。
「お前、ラーク吸ってるのか? こっちのがウマいぞ」
煙草の銘柄に関する何でもない会話でした。
そんな会話の一年後に父親は亡くなりました。
「孝行したい時には親はなし」
とはよく言ったもので、今、父親がいたら、好きな女性のタイプとか男ならではの話をしたいな、そんなことを思います。
親孝行なんて立派ものじゃなく、親父と酒を酌み交わして語り合う、そんな時間を持ちたいものです。
孫が3人もいることを知ったら、天国にいるはずの父親はどんな顔で喜ぶでしょう。
母親はいまだ元気で、自分の家族と同居してます。
毎日欠かさず仏壇をせっせと掃除し、花を添え、何やらブツブツお話ししています。
こんなこと言っておきながら、母親とあまり会話の時間を持ってません。
いざ2人で話すとなると照れくさいのです。
ですが、これを機に少しずつでも話をしていきたいと思います。
「孝行したい時には親はなし」ですから。
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