<この体験記を書いた人>
ペンネーム:まいむまいむ
性別:女
年齢:52
プロフィール:なんの心配もせずに老後を迎えたい50代。
私は3人姉兄の1番下です。
幼い頃から3人ともピアノを習わせてもらい、それぞれ音楽の道に進みました。
私たち家族は父方の祖父母と同居していて、家は商売を営んでいました。
今ほどピアノを習っている子がたくさんいるわけではなく、そのせいか、子どもの頃、自分の家が貧乏だと思ったことはありませんでした。
ところが大人になった今、振り返ってみると、我が家は決して裕福なわけではなかったのだと気づかされたのです。
まず、外食をすることがほとんどありませんでした。
他の家がどのくらいの頻度で外食するかなど、子どもの頃には知る由もありません。
祖父母を含めて7人家族では、外食にかかる費用がバカにならなかったのだと思います。
泊りがけの旅行をした記憶も片手で足りるくらいでした。
それも子どもと母だけ、子どもと父だけ、などで、家族全員で旅館やホテルに泊まった記憶がありません。
母方の実家への帰省も、遠方だったので費用がかさむせいか、毎年行くわけではなく、数年に1度、何かどうしても、といった用事がある時だけだったようです。
祖父母と同居していた母は、遠慮して自分の実家へ頻繁に帰省することも控えていたようです。
姉が大学へ進学する頃、両親が早朝から牛乳配達をしたり、夜間に製パン工場へ行ったりしていた記憶があります。
売り物にならないパンや余った牛乳を持って帰ってきてくれることを、子どもだった私はただ無邪気に喜んでいた思い出しかありませんが。
父も母も、疲れや苦労を子どもに気づかせることのないようにしてくれていたのだと思います。
私が小学生の頃、そろばん塾が流行っていて、周りの友達もたくさん通い始めていました。
しかし、通いたいという私に、母はこう言いました。
「みんなが通ってるから、という理由で始めさせることはできないよ。本当にどうしてもそろばんがやりたいのかどうか考えてみなさい」
そう言われて諦めた記憶があります。
その代わりにと言ってはなんですが、ピアノが難しくなり、練習のために友達と遊ぶ時間が取れなくてピアノをやめたいと言っても、絶対に取り合ってくれませんでした。
今では、あの時簡単にやめさせてもらえなくて良かった。
続けていたから今があるんだ、と本当に感謝しています。
今、3人の子どもを持ち、母の立場になった私ですが、あの頃父と母がしてくれたように、自分の身を粉にして子どものことを考えられているだろうか。
自分の楽しみを後回しにしてまで子どもの教育に一生懸命になれているだろうか。
考えれば考えるほど自信がありません。
使わなければならないお金は惜しまず、足りなければ仕事を増やしてでも捻出してくれたのですから。
恩に着せるわけでもなく、黙々と働いてくれていた両親の後ろ姿を思い出すと、ただただ感謝しかないのです。
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