<この体験記を書いた人>
ペンネーム:なのはな
性別:女
年齢:44
プロフィール:もうすぐ母の三回忌、毎日空に向かって母に話かける日々。
もうすぐ母の三回忌です。
私の母は約3年9カ月病気と共に力強く生きてきました。そんな母の最初で最後のアルバイトの話です。
専業主婦だった母は、人生の後半、親戚のお茶屋さんに年末年始だけお手伝いにいくちょっとしたお小遣い稼ぎをしていました。母の働きぶりが評判で、週2、3日来てほしいと言われてからは、病気がわかるまでの約3年通っていました。
母は、もともと商売人の娘だったこともあり、人当たりがいい人。
また商売のセンスがあったのかいろいろアイデアを出したり、慣れないパソコンでいろいろ作ってみたりしたそうです。よくよく聞いているとマーケティング的な発想もあり、気づけば売上に貢献。そんな母を見て専業主婦にしておくなんて本当に惜しい人材だと私は思っていました。
お小遣いも少しずつ上がって、母自身もそれなりに楽しみながら働いていたのですが、ある年の年末、母は仕事を年内で終えると言い出しました。
私はなぜ辞めるのだろうくらいにしか思っていませんでした。今思うと...あの年末、お歳暮時期で忙しくしながら平行して様々な検査を受け、不安の渦中にあったんだろうと思います。
母は最後まで惜しまれながら仕事を辞めてきました。
私は、その時点では母の病気のことは聞いていませんでした。おそらく検査して確定するまでは黙っておくつもりだったのだろうと思います。
母から病気のことを打ち明けられたのは、クリスマスを少し過ぎた年の瀬でした。
クリスマス前には分かっていたのに、私が出産して初めてのクリスマスだったため、家族水入らずのクリスマスに水をささないようにとの母の配慮だったと思います。
母が電話で打ち明けたのは...病気の話でした。
「ちょっと大変なことが起きてん」と少し笑みも感じる口調でした。が、直感的に良くない話だと察しました。母に大腸がん、ステージ4であることを聞かされ、頭が真っ白になりました。私はまだこの頃がんに対する知識がなく、ステージ4と聞き、余命幾ばくもないと判断したのです。
母は、風邪もひかなければ、お腹を壊すこともなく、寝込む母など私の記憶にはありませんでした。そんな母から聞かされた言葉に誤診なんじゃないか?と疑ったぐらいです。
私はその夜、声を上げて泣きました。
そして、次の日いても立ってもいられず、生後8カ月の息子を連れて、新幹線に飛び乗り母の元へ行きました。
新幹線で息子を抱きながらボロボロ涙が出てきました。
そのとき、妹から「母の前で絶対に泣くな」とメールが届き、涙を見せないなんて無理だと感じた私。ですが、母の元に行くと、母はいつもと何ら変わらず出迎えてくれました。あまりにも普通に接する母に拍子抜けし、昨日の話は夢なのかと思うほどでした。
いつものようにご馳走を作り、年末年始の準備をする母。いつもと変わらないので私も母に導かれるように普通に過ごせたのです。
そして、母は最後のアルバイト代で息子へのクリスマスプレゼントに積み木、私には暖かそうなニット帽をプレゼントしてくれました。
大人になってからクリスマスプレゼントをもらうことはなかったのですが、私にとっては結果的に最後にもらったクリスマスプレゼントでした。
年が明け、それから3年9カ月病気と共生し、母は最後まで強くやさしく生きました。母が最後に自ら稼いだお金で買ってくれたプレゼントは、今でも大切にしています。
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