桜が咲く季節になると思い出すことがあります。
父が亡くなったのは4月21日です。
前回の記事:爪と踵と肌。ここに艶があると女性の気分はあがります
桜のつぼみすら無かったころから最後の時を病院で過ごしていました。
入院前、担当医から「これまで本当によく頑張りました。とても立派だと思います」と肩に手を置かれました。「けれどもう、最後の時を迎える時がきたと思います」「その最後の時をどこで迎えたいですか?」と父に聞いたのです。「自宅でも、施設でも、病院でもかまいません」「どこを選んでも最善のフォローをします」。
父は迷うことなく、「病院でお願いします」と答えたのです。
隣で聞いていた私はある種の安堵を感じました。当時仕事が忙しく、充分なフォローができない状態でした。実家に泊まり込んで看取るなんてできない、仕事を休みたくはない。自分の生活を守りたいと思っていたのです。母には父の面倒をみる能力はありませんでした。そんな周りの状況を察しての父の選択だったと思います。そう言わせているのは自分ではないか。なんてひどい娘なのだと思いました。
私のできることと言えば、毎日仕事が終わると自転車を漕いで入院先まで様子を見にいくことぐらいでした。まだ肌寒い夕暮れ、途中に桜並木を通りぬけ父の病院へと急いで自転車を走らせる日々。段々と寒さの和らぎを感じるころ桜が咲き始めました。夕暮れの薄明りの桜並木はとても美しく、そしてもの哀しいものでした。
そんなある日の休日。病院へ行くと、病院脇の小道にある大きな桜の木の下で車イスの父とベンチに座る母の姿を見つけました。父は家からもってきた青のどてらをパジャマの上から羽織り、二人仲良くタバコをふかせているのでした。母は父が亡くなる直前からタバコを吸い始めました。その理由はよくわかりませんが、同じ楽しみを共有したかったのかもしれません。とにかく微笑ましく感じたのを覚えています。そして、毎年の恒例行事のようにしていた桜見物ができたことをとても嬉しく思いました。
季節のお花は色々ありますが、寒い冬を超え、まだかまだかと待ち遠しい気持ちをのせて
一瞬にして咲き誇り、散りゆく桜。その姿ほど美しくもの哀しいものはないと思います。
そして、その一瞬の季節感を味わうことができるのは、生きているからこそだと思うのです。
今を生きるからこそ、満開の桜と出会える。
父には来年の桜を見ることは絶対になかった。
そう思うと、見ることができた喜びと、もうこれが最後である哀しみがいっぺんに押し寄せてきたのを覚えています。こうしてその時のことを書いている今でさえ、当時を思い返して涙があふれてきます。父の最後を飾ったのは満開の桜でした。
人の喜びの中に季節を味わうというものがあると思います。
桜は散りますが、また来年花を咲かせるでしょう。けれど人の命は永遠ではないのです。
今年も春が来て、桜があの頃のまま咲き誇りました。大切な人と桜を見られることは永遠に続くものではありません。特に高齢の母にとっては毎年、今年が最後かもと思うようになりました。だからこそ、美しい桜を存分に楽しんで欲しいと思います。そのお手伝いをできることは私にとっても喜びであるのです。
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