前回の記事:最後まで優しくなくてごめんなさい。「どアホな娘」が天国の父に思うこと
両親を連れてハワイに行ったのは今から9年ほど前でしょうか。両親とも高齢になり、父はもうそんなに長くは生きられないだろうし、元気なうちに初めての海外旅行へと考えました。
その準備で訪れたパスポートセンターでのこと。
窓口に呼ばれる二人。体をぴったりと寄せ合う後ろ姿。
まん丸に太った体に大きなお尻の母。母より10cmは背丈のある父はほっそりと痩せていて、なんともいえない凸凹の姿と並んだお尻が絶妙。その姿が不思議と美しく見えたのでした。一緒に来ていた娘も「かわいい...」と微笑んでいました。
私が結婚をして家を出、妹も自立、父が定年になると夫婦二人きりの生活なりました。
あるとき、母が勧めた健康診断で父のC型肝炎が発覚。嫌がる治療を母は強引に推し進め、その効果で寛解。そして今度は「癌になってはいけないから」と嫌がる父を強引に病院へ連れ出し、検査を受けさせました。結果、小さな点を発見。改めて専門医に見せると、治療処置の的にもならないほどの小さすぎる初期の癌が発見されました。
現在は本人に告知をするでしょうが、当時はまず家族に知らされました。母はきっぱりと本人には知らせないで欲しいと願いました。それは、本人が知れば死との恐怖と戦わねばならないから。嘘の病気を伝え、内緒で治療が始まりました。
特別に専門の病院を紹介され、何週間か入院をしての治療。それは痛みが伴うものでした。残念なことに癌が小さすぎて標的がずれ、再トライとなったとき、父は担当医に治療を拒否したそうです。母には「先生がもうちょっと先に治療をする、と言っている」「明日退院や」と告げたそうです。ちょうどその時に担当医が訪れ、父の治療拒否がバレました。母が一生懸命、再治療をお願いしても、本人の治療の意思がないと処置ができない、と医師。
そして、その目の前で凄まじい夫婦喧嘩が始まったそうです。
結果、母の勢いに負けた父は渋々治療を承諾したのでした。その途中で、父が癌であることも母が告げたようです。その話を苦笑いする医師から聞いた時には本当に恥ずかしかったです。
けれどそのおかげで、医師が驚くほどの治療結果を何度も残し、弱音を吐くことなく、その後10年生きることが出来たのです。
夫婦愛の形は様々なのだと今なら分ります。
強烈な夫婦喧嘩の陰には、相手を失いたくない気持ち、思いやる気持ち。当人しか分からない様々な感情がそこにあったのだと思います。
それから二人はそれまで以上に磁石のようにぴったりとくっつき合い、どこに行くのも一緒。寄り添う夫婦と変化したのです。
金婚式まで後少しのところで父の癌は終末期に入りました。最後の時を病院で過ごした父の付添は母がほとんどしました。玄関で足を滑らせて足の甲を骨折していたにも関わらず、母は ギブス姿で毎日朝から夕方までベッドの傍らで共に時間を過ごしたのです。
静かに息を引き取った父の亡骸にすがりながら「お父さん、ごめんやで」と何度も繰り返し、声を上げて泣いていた母の姿。それは、これまでの父に対する懺悔の姿に見えました。
今までは、自分の感情をありのままさらけ出す両親の姿を醜いと思っていました。喧嘩をするたびに「そんなに喧嘩をするのなら、離婚をすればいい。嫌なら我慢をして、少しは相手に遠慮をしろ」とさえ思っていました。
夫婦とはいえ他人である。たとえ夫婦であっても、自分の感情のままを相手にぶつけるのは見苦しいことであり、相手を尊重する、迷惑をかけない関係が理想だと思い描いていたのです。
だからでしょうか。別れた夫とは喧嘩らしい喧嘩は一度もありませんでした。でも、それはやっぱり超水臭い関係であったのではと思い当たったのです。
とても身近にいる、他の他人とは違う他人。
両親のようにお互いに自分をさらけ出して暮らしていれば、結果は違ったかもしれません。別れてしまってはその答えは永遠にわからない。
今は父の命日も忘れる母です。それは夫婦道を終了できたからかもしれません。
「夫婦は修行と一緒や。別れたら来世も同じ人と結婚せなあかんで」と嫌味を言う母。でも、たしかに、あのときのふたりを思い出すと『夫婦とは添え遂げてなんぼや』と思えてくるのです。
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