前回の記事:ひとりは孤独、ではない。自分と向き合う「ひとり時間」のススメ
少し春の気配を感じる頃になると、父が最後を過ごした病室でのことを思い出します。
病院で人生の幕を閉じると決めた父は、入院の日、着替えなど入ったボストンバッグを自分で持って病院に現れました。入院手続きを終え一息つくと、私が差し入れをした大好きな鶴屋吉信の生菓子を2つもペロリと平らげました。その食べっぷりの良さに食欲がないことを心配していた母はとても喜びました。「元気だな、爺さん」と一緒に病院まで様子を見についてきた、息子は入院の必要性を疑うほどでした。けれどその数時間後、ひとりで立って歩くことができなくなったのです。
それから2カ月近く入院して、天に召されました。良かったことは、だんだんと寒さが和らいだ4月のはじめ、病院の敷地にある満開の大きな桜の木の下で、母と父は並んでタバコを一服吸うのを楽しみに入院生活を送ることができたことです。
ちょうどその頃、職場は事務所移転で大忙し。中心的な役割を担っていたので仕事を休むことができずにいました。私生活では夫と別居について調停中。公私とも多忙な日々で、父の病室には仕事帰りにちょっと立ち寄るだけしかしていません。
私の心はとんがっていたのかもしれません。もう亡くなるかもしれない父に対して、決して優しい娘ではありませんでした。「なんで俺、こんなことになってんやろ?」とベッドで泣き言をいう父に、「そやから毎日点滴にいかんからやで」「人の忠告を聞かんからやん」こんな風に普段のようにきつい言葉で返すだけ。
思い返せば高校生くらいから結婚するまで、まともに口をきいたことがありませんでした。思春期の反抗期から抜け出せずにいたように思います。さすがに結婚してからは父が可哀そうになり言葉を交わすようになりましたが、楽しく世間話をするような関係ではありませんでした。
そんなある日のこと。仕事で疲れてブスっとしている私に、「かわいそうにな」と父がポツリと呟いたのです。「へっ?何が?」と思ったのですが聞こえないふりをしました。
どうして聞き返さなかったのか。
それは、"聞き返せなかった"からです。こんな時にも優しい言葉を返したり、態度をとることすらできない。どうしても普段の自分を変えられない。最後くらいは優しい娘になってもいいはずなのに。分かっていてもできないのです。その様子が「かわいそうな子」に見えているのだろうなと思ったからです。
父が亡くなってからも、「かわいそうやな」という言葉は心にずっと引っかかっていました。「悪いことをしたな」と後悔もしていました。ですから、誰にもそのことを告げずにいました。
それから七回忌を迎えた去年の春。妹と色々と父の話をしていて、その時のことをやっと話せました。
「そうやで姉ちゃん。お父ちゃんは、姉ちゃんがかわいそうで仕方ないって言うてた」
「なんで?」
「そらそうやろ。子供をひとりで育てていかなならんやん。それが『かわいそうや』って言うてたわ」
「ええっー。私の望むところやで。全然かわいそうちゃうで」
「そやかて、親やもん。そらそう思うで」
「へえ、そうやったんやぁ」
亡くなる前、看病のため一時帰国をしていた妹に、父は涙を流して感謝とお礼の「ありがとう」を何度も言ったそうです。
私には最後まで普段通り接していました。私は、父が涙流す姿を見たことなどありませんでした。でも、それは「父からの最大の愛である」と思っています。
「ほんまにどアホな娘や」が口癖だった父の、「どアホで愛おしい娘」への最大のやせ我慢。
優しくなくてごめんなさい。
私は誰よりも幸せな娘であり、天国の父に見せる為にも幸せにならなければならない娘だと思っています。
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