<この体験記を書いた人>
ペンネーム:まなやさん
性別:女
年齢:51
プロフィール:35年一人で介護をしました。
昭和ひと桁生まれの両親の間に生まれた一人っ子の私は、小学生の低学年から母の介護をしていました。
当時は今のように容易に入れる介護施設もないし、ケアマネジャーの制度もありません。
いずれにせよまだ子どもだった私は、そのようなことを知る由もありませんでした。
最初は何をするにも時間がかかっていましたが、毎日母の代わりに米を研ぎ、買い物をし、食事を作り、洗濯し、母をお風呂に入れるという一連の作業があたりまえでした。
当時の私はこれが当然なのだと苦痛に思わず、そのまま大人になり、就職、結婚しました。
私は結婚して初めて「介護をしなくていい生活」を過ごすことになったのです。
共働きだった私たちは、「休みの日の朝寝坊」が楽しみになりました。
そんなある休みの日の早朝のことです。
家の電話が鳴りました。
それは実家の近所の方からでした。
「あなた、一人っ子なのにお母さん置いて行っちゃって何考えてるの? お母さん買い物に出て転んで怪我したのよ!」
まくしたてられてショックでした。
前日母と電話で話したのに、母は私にそんなこと一言も言わなかったのです。
娘の幸せを思い、自分のことで心配をかけたくなかったのでしょう。
そんな母の気持ちに甘えようと思ったのですが、近所の方の電話攻撃は毎週休日の早朝にやってくるようになりました。
その方が言われることも分かります。ごもっともなご意見です。
しかし人間、一度甘い蜜を吸うと再び辛い環境に戻るのは勇気がいるのでした。
そんなある日、夫が先に動いてくれたのです。
「同居できる家を探そう!」
私は夫の優しい言葉に涙が溢れました。
しかし同時に、また始まるであろう介護の日々に加え、夫と両親の間に挟まる地獄絵図が脳裏に浮かび、感動の涙はすぐに枯れました。
同居間もなくして父も病気になり、私たちには子どもも生まれました。
両親と子どもの3人を並べてオムツを替えました。
そのとき、それまで25年間「介護があたりまえ」だったはずの私の中で、なにかがプツリと音をたてて切れました。
介護が苦痛で苦痛で耐えられなくなってしまったのです。
「もう私には無理! 誰か助けて!」という思いで、ある日とっさに私は救急車を呼びました。
初めて押した電話の119。
病院に行くと母を診てくださった先生が「こんなひどい状態の人をよくこれまで一人でみたね」と私の頭をポンポンとしてくれました。
レントゲン写真が映し出される光の中、私は今まであんなに泣いたことはないくらい泣きました。
そのまま母は入院、手術、老人保健施設の生活となりました。
ですが、老人保健施設は長期入所ができません。
またその後母は両膝の手術や骨折等で入退院を繰り返したため、結局、家での介護は35年間に渡りました。
病気の母の介護をするのは容易なことではありませんでした。
頭がしっかりしている分、曖昧なことも言えず、母も私もお互い辛かったに違いありません。
一方で、プロに任せて施設に入った母の3年間は、笑っていた記憶のほうが多いです。
もっと早く楽にさせてあげれば良かったと思っています。
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