<この体験記を書いた人>
ペンネーム:むらまゆ
性別:女
年齢:43
プロフィール:専業主婦です。6年前に21年勤めていた仕事を退職して、現在は自分の難病と息子の障害と向き合う毎日です。
昨年義母が70歳で亡くなりました。
義母と私の関係は最初から最悪でした。
いつかは分かり合えると思いましたが無理でした。
結婚前、まだ付き合って半年くらいの時に義母から言われた言葉はこうです。
「あなた一人娘なの! 将来私達の介護どうするの! 結婚するなら自分の両親ではなく夫の両親を最優先に親孝行しなさいよ!」
当時は若く意味が分かりませんでした。
意味がわかった今でも、結婚自体には後悔はしていません。
なぜ義母が私のことを拒絶するのか理由は簡単でした。
「義父母の夫婦関係」が、とっくの昔に破綻していたのです。
義父は義母のことを家政婦程度にしか思っておらず、DVは日常茶飯事だったそうです。
夫は当時20代半ばで就職2年目でしたが、給料はほとんど義母に上納し、義母の私利私欲とホイホイ加入する生命保険料に消えていました。
「塾やらなんやらで親にお金を使わせたのだから当たり前だ」
夫自身もそのことを問題視していなかった事に、私は非常に違和感を感じました。
夫が就職して初任給を渡した時、夫は義母が喜んでくれると思っていたそうです。
しかし、義母から出た言葉は「やっと稼いでくれた!」でした。
ねぎらいの言葉はおろか、感謝すら全くなかったそうです。
その後は勝手に夫の通帳からお金を抜き取り、その事は一切言わず、引き落とし残高不足の通知を見て気づいた事がしばしばあったとのこと。
夫はその事について義母に一度も文句を言わなかったそうです。
愛情もかけてもらえず、ただの「使い勝手のいい子供」のまま義母を亡くした夫の心は、今でも晴れません。
義母の愛は全て、「夫の5歳年下の弟」に注がれていました。
弟は小学低学年まで入退院を繰り返し、小学生から高校生まで朝が弱いのかほとんど遅刻し、小学校時代は毎日義母が送り迎えをしていたそうです。
義母は夫の成績以外興味はなく、少しでも下がると激昂されたと言っていました。
弟は義母から成績でも咎められず、大学卒業後も働くことなく40代になった今も実家にいます。
ギャンブルで外出はするので引きこもりではないはずですが、弟さん本人に「義母も亡くなり、義父も体調が悪いから働かないと将来困るよ」と伝えても、「働く気はないから」と平然と言っていました。
義母は亡くなる1年前に倒れました。
数年前から咳や息苦しさを訴えながらも、骨が浮き出るほどガリガリになっても頑なに病院を拒み、倒れた時にはもう手の施しようがありませんでした。
医師からは「10年は無理だけど5年は生きられる」と言われましたが、僅か1年足らずで亡くなりました。
夫はその間、献身的に尽くしました。
どんなに忙しくても義母が食べたいものをリサーチをして購入し、好き嫌いの多い義母の為に頑張ったと思います。
最後の4日間は夫も義弟も私も泊まり込みで看病しましたが結局だめでした。
死ぬ数日前に義母が弱々しい声で私に「お前は嫁としては失格だ」と言いました。
ショックではありませんでした。
義母にとってはどんな人でも失格でしょう。
そして「義父を頼む」と言われた時、私は泣きながら、でもハッキリと言いました。
「嫌です! 私は私の人生を楽しむ。あなたの様に私の夫を金づるに、弟を野放しにして義父の家政婦のままで後悔ばかりの人生を送るつもりはない! 夫と出会い、息子を授けていただいた事は感謝します。もう夫をあなたから解放してください。お願いします」
目が涙でにじみ、その時義母がどんな顔をしていたかは分かりません。
今でも夫は月命日や実家に帰るたびに「僕は親孝行が足りなかった。後悔している、もっと何かすべきだった」と言っています。
夫は義母の呪縛からまだ解放されていません。
恐らく、誰が聞いても夫は十分親孝行だと思うでしょう。
でも洗脳された夫の心はまだ解放されません。
義母との20年は、夫を義母から解放してもらうための戦いでしたが、私の大敗でした。
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