性別:男
年齢:52
プロフィール:妻、子供2二人、孫2人、母と7人家族の会社員です。
※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。
◇◇◇
1982年(昭和57年)に16歳で現在の会社へ就職、勤続36年目です。
地元の印刷会社で、入社後1週間で印刷機械へ配属になりました。今でいうオペレーターというやつで、先輩たちといえばくわえ煙草で印刷物をにらみ色調整や機械の操作をしている、いわば職人の集合体。その中へボーンと飛び込んだ私は、右も左もわからずただただ先輩たちのやっていることを見て覚える日々でした。
まだ上に見習いの先輩もおり、ミスすれば言葉で言ってもらえずスパナや工具でぶん殴られる様子を見てきました。目の前でそのような光景が繰り広げられているものだから、怖いなんていうことはできませんでした。
ただ、私は中卒で若かったためか、その怖い先輩たちも私には何か優しく接してくれていました。
そんなことをしているうちに、今度入る新しい機械の機械研修で5日間ほど先輩達が不在になることになったのです。その頃の私は入社して半年程。そんなまだ見習いにすぎない私に「いない間はお前がまわさないとな」と印刷自体を任せるというのです。拒否もできずやらざるをえなくなり、見よう見まねで操作、なんとかチラシひとつ印刷した時点で夜中、日付が変わるという日々が何日か続きました。
それは、私の36年間にどれだけ影響を与えたか分からないほど衝撃的な経験でした。出来ないと思ったこともできるのだ、というガッツが生まれたのです。
おかげで私は今世の中に存在する印刷機械で扱えない機械は恐らくないと思います。努力を続け、印刷課長の地位まで登り詰めました。
前置きは長くなりましたが、36年目の夏のある日、いつもの人事異動の時期にあった私はとある上司からの呼び出しに応じました。
「生産を管理して欲しい、品質管理方面で」という内容の話に、耳を疑ったのはいうまでもありません。ただ断れない雰囲気も瞬時に掴めましたので、承知した旨を伝えました。
頭をよぎったのは「機械が回せない、仲間とも離れなければならない」ということ。一人になった時に「俺の腕はどうなる? もう腕が振るえない」50過ぎのいいおやじが泣きました。
機械操作と印刷自体物凄く自信がありました。それを全てを捨てて新たなステージへ向かう勇気が自分には無かったのです。
その時、ふと出来ないこともできるといってチャレンジしてきた過去が蘇ってきたのです。そして、同じ部署で働き続け、仕事のリセットを一度も経験せずにきた自分に気づきました。そんなもの何百回も経験している若い人もいるのに、何と恥ずかしい話です。出来ないことに挑戦しよう、そう思えるようになりました。
技術を全て捨てるのではなく、それを十分に生かして品質管理をする、そう気持ちの切り替えができました。
もちろん葛藤もあります。泣きもしましたが、前に進んでいる自分も確認できました。
そして、生産管理に挑戦してから今年で丸一年になりました。気づけば今の分野もプロの域に達してきていると自負しています。
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