誰も見捨てない仏の教えに出合った時が、自分の生き方を見つめ直す時
――生きていく上では悪を犯さざるをえない、それなら悪は許されるものなのですか?
近藤丸 悪を積み重ねていいわけではありません。ですが、仏さまの言葉が自分の問題として本当に響いた時、人は生き方を見つめ直すと思うのです。
先輩の僧侶から聞いた話ですが、ある若い僧侶が、浄土真宗の教え、阿弥陀如来の話を聞いて次のように言ったそうです。「どんなあなたでも救うと言われたとき、今の自分のままでいいのかという問いが生じた」。悪を作ってしか生きていけず、生きていることが当たり前になり、おごってしまう私たちです。しかし、そのことを悲しみ、私たちを救いたいと願う仏さまの言葉に触れるとき、自分の問題性に開き直るのではなく、少しずつでも自分をみつめ、自己の生き方を問い直すという方向性も生まれるのかもしれません。
――具体的にはどういったことなのでしょうか?
近藤丸 浄土真宗の教えでは、私たちに求められているのは念仏し、仏さまの教えを聞いていくことだけです。生き方は救いの条件にはならないのです。だけど、どんなあなたでも救うと言われた時、私たちは今のままでいいと開き直る訳ではないのだと思います。誰をも救いたいと願いを立てた仏さまの想いに触れたとき、自分の生き方が問われることが始まる。浄土真宗ではだからこそ教えを聞き続けて、自分の生き方を見つめ直すことが大切だと言われるのです。
――では、私たちは何をすればいいのでしょう?
近藤丸 浄土真宗の場合、仏さまの慈悲を信じることが大切だといわれます。しかし、人間が大いなる慈悲を信じることがどうしてできるかと言うと、大きな慈悲自身が人間に働き、人間の心を転換するからだとされます。自分からそんな慈悲を信じるなんて、できないんだと。なぜなら私たちは、本当の意味で真実を見通す力がないからです。どうしても自己中心的な見方をしてしまい、仏さまの慈悲を信じることができない。しかし、そんな自分の思いを破り大切なことに気づかせる力が、大きな慈悲として働いているのだと考えます。すると自分は愚かであったと分かってくると同時に、ずっと自分を助けようと働いていた仏さまの大きな慈悲があったことも知らされる。こういう論理が浄土真宗の教えの中にあるのです。
仏様の慈悲を信じ、自分を見つめ直す。「死に方で命の価値を決めてはいけない」という教えにふれ、ヤンキー君は自分自身を見つめ直した。悲しい経験をし、仏の教えを知って悲しみから立ち直ったからこそ、ヤンキー君の言葉には住職をはっとさせる重みがあったのだろう。
仏教が生まれてから2500年、人々の喜び、悲しみ、苦悩に寄り添ってきた教えには、現代に生きる人々が抱える悩みを解決に導くヒントがある。漫画『ヤンキーと住職』を読んで、これからの人生の糧になる、大切な言葉や教えを見つけよう。