亡くなり方で、生き方の善し悪しを決めることはできない
――ヤンキー君は友人のタクヤが亡くなったことで自分を責めています。それに対する僧侶の命に対する捉え方が胸にしみました。命の善し悪し、命の価値について、仏教はどう捉えているのでしょうか。
近藤丸さん(以下、近藤丸) 漫画のこの言葉は、身近な人が亡くなりその事で苦しんでいる人が目の前にいる状況で、僧侶の口から出てきたということが大切です。適当に議論するための言葉として使われれば、「命の価値は平等」という言葉も虚しいものになってしまいます。
基本的に「命」を「価値」というモノサシで見ないということを、仏教は教えていると思うんですね。「命を平等に見る」というのは、仏さまの見方なんです。私たちの普段の見方からは、このような視線は出てきません。何でも価値や意味を付けてしまっているのが、私たちのものの見方です。しかし、その見方が痛ましいと言っているのが、仏教の教えだと思います。何でも意味と価値で測っていく見方自体に、何か問題性はないかと教えられます。
――その問題とは何なのでしょうか?
近藤丸 私たちは人と比べて自分が劣っていると感じると、「こんな自分は価値がない」と思ってしまう。しかし、そんなことを言っている間に、この命は終わるかもしれない。今日死ぬかもしれない命を生きています。このような厳粛な命の事実から見れば、今ここに生きているという事実があるだけです。その生きていることの価値を、価値づけしてモノサシで測ることは、ずっと生きているつもりの私たちから出る、ある意味で「おごった考え方」ではないでしょうか。
――価値を求めること自体がおごり。生きるということに対する敬意があるんですね。
近藤丸 ブッダが説いた経典にこんな一説があります。
「さとりの国の池にはとても立派な蓮の華が咲いている。青色の蓮華(れんげ)は青い光、黄色の蓮華は黄色い光、赤色の蓮華は赤い光、白色の蓮華は白い色の光を放っている。一輪一輪ちがっており、それらはどれもそのまま香り高く何とも美しく素晴らしい。さとりの国はそのような徳の高い、言葉を超えた素晴らしさで満ちあふれている。(『阿弥陀経』より意訳)」
ブッダの眼は、慈しみの眼・平等の眼。その眼で見ればどんな命もそれぞれに光り輝く平等なもので、それぞれに光り輝いているということです。私たちは縁によっては今日・明日亡くなるかもしれない命を生きています。縁によって長生きする人もいれば、赤ちゃんの時に亡くなる人もいる。そして、それは縁でしかない。長く生きたから価値がある・短かったら価値がないというのは人間の思いから見た見方です。
――確かに、人生が短いか、長いかで判断してしまいそうです。
近藤丸 もちろん、どんな命も必死に「生きよう、生きよう」としている。ですから、出来るだけ長く生きることを願うのは当たり前ですし、誰もが生き生きと生きていける社会を目指すべきです。そのことを否定するものではありません。しかし、縁によって生きている命の事実を見つめるとき、「短いから価値が無かった...」としない見方が、仏教の中で語られてきました。